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コラム No. 32

セミナー

1996年当時、マルチメディアスクールに所属していたこともあり、頻繁にセミナーや授業に参加した。PhotoshopやIllustratorを学んだのはそこでだった。最近、後進育成という言葉を私自身が口にするようになっているので、現状を知りたくて、時間と予算があればセミナーに参加している。

5年強を経て、何か異なるものを感じている。5年前、教えてくれたのは、「オペレーション」だった。ソフトの使い方。与えられた教材に従って、例題通りのモノをどう作るかを教わる。もちろんテクスチャーとか形状とか自分の好みに合わせる自由度は当時もあった。しかし、どこに使用するツールが隠れているのか、それを使うと何ができるのか、という知識。

最近のセミナーで特に感じることは、講師の方の自己流の作品の作るプロセスを語っている。先日受講したものは、きちんとバインダーに収まった教科書は存在したが、開いたのは数回。数時間毎の休憩前に、「だいたい今でこの辺りまで、やったことになります」という台詞と共に数秒開くだけ。授業のやり方も、生徒がついてきているかどうか、殆ど見ない。ツールの呼び出し方や操作法は詳しく説明するけれど、「そうした操作法を覚えてもしょうがないでしょ」と背中が語っている。

このソフトで一体何が出来るのか、そして一般的にはどう操作するのか、その二点だけが分かっていれば、後は自分の才能と相談して格闘しなさい、と言っている。先生の言う通りの作品が出来たところで意味はない。ソフトを学ぶ気概がある者は、そのセミナー終了後から色々とドロドロな開発の道へと進んでいく。それが分かっているからこそ、基本的なオペレーションに重点を置かずに、どこまで到達できるのかを見せてくれている。セミナーの間中、基本的に私が出来たことは、講師の引き出してくるツールの場所を確認して、目の前に示される作例よりも見劣りするサンプルを作った程度。与えられた時間の殆どを、講師の手さばきを見ていた。

あ、これが技術を盗むということなんだ。そう思えた。大きな展示会に著名なデザイナが目の前で何か作ってくれる時、目を皿のようにして見つめていた。Photoshopも、Painterもそうして益々好きになって行ったことを思い出す。最近のセミナーは、一概に言えるものではないのだろうけれど、テクニック公開道場の匂いがする。ここで盗むこと自体を体験しろ、と。

3Dソフトのセミナーで、講師は最後にこう言った、「この3Dソフトを、テキストエディタのように使いこなしてください」。アイデアが浮かんだら、最も軽いアプリであるテキストエディタでアイデアのスケッチをするように、3Dで記録しろ、というのである。手足のようにそのソフトを使えるようになれ、と。そして、そのセミナーの中で見せられた実演は、そうした神業と思えるようなことが実際に出来るのだという事実だった。

既成の「授業」に慣れている者には苦しい時間だったと思う。テキストはあったが見られることもなく、少しでも聞き逃したら次のテクニックに話題が移っている。ついて来ているのかの確認も殆どない。しかし、こんなチャンスはないのである。手取り足取り教えられることはないにしろ、一流のアトリエでその作る様を一緒に体験できているのである。

綺麗な教科書、考え抜かれた例題、やさしい先生。そんな既存のイメージは殆どない。しかし有意義な時間。綺麗な教科書よりも使えるデータ、決まったパターンの作例ではなくオンデマンドでインタラクティブな授業の進み方、良い先生であるよりもその道の一流の専門家。教育業界は、こんな風に変わってきているのかもしれない。

複数のセミナーで共通なのは、アイデアの源みたいなものを一生懸命教えてくれること。それは商売ネタだろうと思うようなことを語ってくれる。自分がどうやってこのアイデアにたどり着いたか、自分は何を参考にしたか。「マネをした」という表現すら使う人もいる。もちろん盗作とかのレベルではない。最初の開拓者への敬意も忘れていない。そのアイデア帖を公開するような行為は、実は「皆で」よりよい世界へ行こうよ、と言っているようにさえ見える。アイデアを独占する方向ではない。皆でこれを土台にもっと上に行ってみないか、と誘っている。「今明かしたアイデアにピンときたら、凄いものを作って、後日僕を感動させてくれ」。ここでは最早先生と生徒という関係ではない、共にレギュラー争いをする先輩と後輩みたいな関係に近い。

数年前シリコンバレーで企業の壁を超えて技術論議が、カフェ等でよく行われていると聞いて羨ましいと感じていた。でも実はそんなことは既に日本でも行われていたのだ。有料のセミナーだけではない。有志が、本当に志がある者達がボランティアで様々な啓蒙活動をしている。頭が下がる。セミナー後も1つのURLが知らされる。そこに肝心なことは書かれてある。セミナー中も必死でメモる必要もない。いい時代になったと感じる。ここで楽してたらバチが当たりそうだ。

でも、問題も生んでいる気がする。まず受け手と与える側のズレの問題。セミナーの姿勢が変わっているのであれば、受ける側の姿勢も変わっていないとズレが起きるのが道理だ。本屋で三千円で売っている本を読めば分かることを、数万かけて習いに来る人もまだ居るだろう。期待が高すぎて、講師の能力がついて行かない場合もあるだろう。後者は特に展示会のサポートブースでよく起こる。質問しても質問内容が分からないベンダー社員が居て、横に立っている見知らぬお客さんが教えてくれたりもする。

進んでいる講師陣のレベルまで、私たちは追いついていっているだろうか。そうした底上げ啓蒙活動も、これから益々必要になるのかもしれない。「ゆとり」教育の名の下に、上げ膳的据え膳的に授業を受ける子も増えるかもしれない。何を知りたくてここに居るのか、何を伝えたくて教壇に立つのか。昔は考えなくても良かった問題が目の前に横たわる。

先日北陸でのFlashセミナーに参加した。失礼ながら想像していたのは少し暗めの進行。しかし講師の方の実力もさることながら、参加者の熱意が伝わってくるものだった。笑うべきところでしっかり笑い、唸るところでも声が聞こえる。首都圏のセミナーより反応がストレートだ。講師の側もノリが良かったんではないだろうか。

学ぶ意思、伝えたい意思、それぞれのレベルの上位層(平均層ではない)が徐々に上がってきている予感がする。これが広まって欲しい。格差が広がっている危機感が外れますように。

以上。/mitsui

コラム No. 33

希望

Ridualの話をさせてもらうとき、幾つかのパターンで話させてもらう。Webサイト作りに一番大切なのは時間である、そして最終成果物を見て、今現在何をすべきか考えるべきである、と。

時間の話はとにかく立ち止まっては駄目だの一言に尽きる。人は考えるものである、だから時間を与えては考えてしまう。逆説じみているが、サイトはアイデアが浮かんだならそれが旬である、出来得る限り迅速に作り上げた方が良い。どんなに更に良いアイデアが浮かんでも、全体の調整からし直すのであれば黙った方が良いときもある。完成しない作業はデザイナを殺す。

最終成果物の話は、先日は国語のテストを例にして話した。国語の読解問題。問題文を読んでから設問を見るか、設問を読んでから問題文を見るか。決められた時間内に迅速に答えようとするなら、大半の人が後者を選ぶだろう。サイト作りも同じだと思う。クライアントが抱えている状況(問題文)を読んでから、どうしましょうかと考えていては駄目である。ドキュメントの提出期限が迫ってから、どういったフォーマットで資料出せばいいかと考えながらワードを開いては駄目である。運用を開始してからログの解析方法やそのフィードバックを考えていては駄目なのである。何事も先手先手で先ず設問となることを頭に入れてから、目の前の状況に接していくべきだ。

そうした体制作りは、アウトプットとしては提出物の体裁であったり種類であったり数だったりするのだが、多分先ず「設問を読む」という部分に理解や共感が無くて形から入ってしまうと、加速装置のつもりのワークフローが、単なる負荷になってしまいかねない。こうあらねばならない、と頑なにデザイナがワードやエクセルで青くなっているのは哀しい。

自分達がやり続けていける体制を早くから確立できたところは成功に進んでいける。成功は経済状況ではない。仕事をしている開発者が活き活きしている状況を指す。何のために働いているのか。まるで苦行のようなものだと割り切っている人にもたくさん会って来た。労働はエンターテイメントではない? 正直言って賛成できない。店員が輝いていない店で、好んで買い物をするだろうか。

先日のとあるセミナーで、Ridualをお見せしたときに衝撃的なコメントを頂いた。「仕事をしていくうえで、希望が持てました」。別にRidualを使うと、薔薇色のサイト構築環境になる等と誇大広告をした訳ではない。サイトマップが自動生成できて、それなりのファイル解析が行える。そのためには色々と憶えることも多々ある。でも既存のツール群と連携する道は開けている。それは例えば、RidualではXMLとJava。そういったいつもの内容を話しただけであった。

このコメントは、私の中で、当たって欲しくない予感を更に強めた。最近サイト作りって魅力が薄れてきているんじゃないか、という予感。華々しいことをしている人はとっても限られていて、新しくこの世界に入ってきた人は昔の雑巾がけみたいな修行時代がずーっと続いているような予感。アイデアは浮かんでも、それを実装するための時間が別のことに丸呑みされて悲鳴をあげたくなっているのに、それでも声を押し殺して耐えているような予感。

どんな時にそんな予感が背筋をつたわるのか。例えば、自分でサイトデザインしていてブラウザチェックする時。例えば、読まれないと分かっているドキュメントを山ほど書かなくてはならなくなった深夜のオフィス。例えば、子供と丸々一週間会えないとき。子供に誇りたい仕事の内容に不毛感を感じるとき。

でも自分でそんな嫌な予感を打ち消すように、上や前を向ける時もある。優れたサイトに出会った時。優れたサイト開発武勇伝に触れた時。活き活きとした誰かに業界内で会えた時。

授業参観なんかで学校の子供達に直面するとき、目が空ろだと気が付くと悲しくなる。サイト開発者がヘトヘトで参っていると、話していて辛くなる。もっと楽しい世界だったじゃないか、と叫びたくなる。いつからこんな色に染まってしまったのだろう。

昨年3Dのセッションに行ったとき、反対の意味で背中がゾクゾクした。活気があるのだ。7年ほど前のWebのセッションを思い出した。その時、そこにいる人たちは、基本的にはWeb屋さんではない。ゲーム屋さんだ。ここに流れていってしまったんだ、と直感した。しかし、目の前で話されているセッションの内容は、3Dコンテンツの作成素材や完成映像などのリソース管理システムの話だ。Webでもコンテンツマネージメント系の話は面倒で自由度が少ないので敬遠されがちだ。しかしそこでは、活気を失わずに聞かれている。

3Dの世界は、レンダリングに時間もCPUもかかるので、その分無駄にできない。誰もが初めて見る映像にチャレンジできる土壌もあって、管理系には力が入る。そういった体制がしっかりと根付いている。しかも、発売してみないと莫大なコストの回収ができるかどうか分からない、というリスク系チャレンジ。活気ある者たちを惹き付ける魅力に溢れている。しかし、多分それだけじゃない。やはりゲーム開発会社の人の活かし方が上手いのだと思う。育て方が上手いのだと思う。楽しんで開発しているんだと思う。

「仕事をしていくうえで、希望が持てました」、とコメントした方は、現実のサイト開発に何を見ているのだろう。延々と続くエンジニアとデザイナの確執だろうか、延々と続くブラウザとの格闘だろうか。延々と続く散在するファイルとの闘いだろうか。でも、多分まだこの業界から離れられないのは、やはりWebに魅力があるからだろう。

情報にアクセスすること自体が大変だった数年前から、ビデオやライブが流れるようになるまで、たった数年。日々流れてくる情報に一喜一憂し、時に流され、自分を見失いもするが、助け手をネットの中に見つけたりもする。情報の道路工事現場に輝く魅力は、実は少しもくすんではいない。だからここから離れられない。そうした仕事をすることに誇りを持てる、だから更に離れ難い。

開発ツールやメンテナンスツールは色々と出てくる。でももっとデザイナを守ってくれるツールが出て欲しい。Ridualに込めた願いである。私たちは楽をしたいんじゃない、良いモノを作りたいんだ。

最後にWebデザイナの女工哀史的な状況を想う度に、浮かんでくる詩を。僕らはもっと活き活きできる。

ぼろぼろな駝鳥

何が面白くて駝鳥を飼ふのだ。

動物園の四坪半のぬかるみの中では、

足が大股過ぎるぢゃないか。

頚があんまり長過ぎるぢゃないか。

雪の降る国にこれでは羽がぼろぼろ過ぎるぢゃないか。

腹がへるから堅パンも食ふだらうが、

駝鳥の眼は遠くばかりを見てゐるぢゃないか。

身も世もないように燃えてゐるぢゃないか。

瑠璃色の風が今にも吹いてくるのを待ちかまへてゐるぢゃないか。

あの小さな素朴な顔が無辺大の夢で逆まいてゐるぢゃないか。

これはもう駝鳥ぢゃないぢゃないか。

人間よ、

もう止せ、こんな事は。

(高村光太郎-「道程」より)

 

以上。/mitsui

コラム No. 34

人材育成と子分育て

人、特に後継者を育てる方法は多々あるだろうが、大きく二つに大別できる気がしている。特定の候補者に集中して育てていくタイプと、全体を対象に育てながら結果として数人に絞るタイプ。

どちらかというと、前者が圧倒的に多く目につく。これはと思う人間にどんどん仕込んでいく。常に侍らせる。何事も相談し、相談させる。上司が行けない会議でも、あたかも自分がいるかのような雰囲気を作り出す。

しかし、難点もある。その本人が高ぶらないか。結局決断を聞きに上司の所に行くので、単なる伝書鳩になっていないか。本人が自分のカラーを出すのを躊躇していないか。その本人はどうやって、「その次」を育てていくのか。そのタイミングはいつからか。その人ばかりが部長室に呼ばれて、チームメンバは平気なのか。実力はチームメンバ誰もが認めているのか。結局仕事の効率が良くなったのは、楽になったのは、その上司だけではないのか。

後継育成は一時の話ではない。絶え間なく続いていくものだし、後継者を意識することは、自分の引退も意識すべきものなのかもしれない。但し、引退とは文字通りの意味だけでなく、新しい開拓に出ることも意味する。自分が開拓した分野を、惜しげもなく次に譲り、新たな場に進んでいく方を何人か見てきている。そうした引退には、淋しさはない。荒野に向かっていく凛とした姿。あるいは、憧れ。あるいは、世俗的にもっと楽に生きればいいのにと、勿体無い視線。しかしやはり根底には尊敬の眼差し。

決められた一人、あるいは少数を育てていくのに対して、一度に全員を巻き込んでいく教育もある。上司が、誰とでも隔てなく話し、権限をプロジェクト毎にまわしていく。それぞれに適切にアドバイスし、自分のコピーを育てるのではなく、新たなリーダを育てる。自分のカラーを継承することは余り頭に無いように見える。いや、そもそもその上司自身が常にそのチームの中で影響を受けつつ変わってきている事を自覚している風にさえ見る。

だから、ある時点である仕事を任せられる人を指名せよ、と言われたら。多分毎回違う人材が頭に浮かんでいる。だからプロジェクトの方向性をみつつ、今回は誰々に任せる、と振り分けができるのだと予想する。当然ながら、上司に求められる能力は圧倒的に高度だ。仕事を見つつ、人も見る。でも、そのための役職なんだろう、本来は。それで、そんな上司から意外な局面で指名されると、アドレナリンが噴き出す。既存の忠誠心ではない忠誠心に火が灯る。

どちらのチームが強いか。根本的にはそのチームのメンバに依る。誰でも彼でも、チームを率いていける訳ではないし、仲の良い悪いもあるだろう。しかし、私の少ない経験では後者のほうが、打たれ強い。多少の波風では余りパニックにならない。いつも自分達なりに決断して実行していくことが訓練されているからだと思う。しかし、前者は後継者が余程リキを入れて育てていないと、チームメンバ各自が自分には命令が降りてくるものだと勘違いしていく。自分で考えないで、指示された方向に進むだけだと、ある意味楽である。どんなに愚痴や文句を言っても、決める責任はやはり重い。だから人は流される、楽な方へと。待ちうけモード。

デザイナは個性的な人が多い。昔はそれは褒め言葉だったけれど、最近は違う意味にも使われる。「コミュニケーションができない」という意味にも使われる。同じ仕事仲間、ツール仲間とは話ができる。しかし、その枠を超えられない。批判は多々聞くけれど、でもそれはエンジニアも同じこと。デザイナに負けず劣らぬ人見知りの強いエンジニアは多い。

そうした人たちが、上司やクライアントとの接点を減らすと、その人見知り度が加速する。全然話が通じなくなる。そうした問題を、その人は人前に出ないんだと片付けることはできない。得てして、ユーザーインターフェースの良いディレクタが倒れて、どうしてもそうした人が説明しなければならない場面は、一番辛い状況で降って来るものである。

また、どんなに良い後継者候補でも、その上司としか話さないと、その上司の癖にしか反応しなくなる。そうしたことは、こんな風に提案するんだよ。その上司にしか通用しないノウハウが誇りになる。その上司専属になった「かつての」有能な人は、少し哀れだ。

三国志を新たな視点と描写力で語り継いでいるコミック:蒼天航路 101話(コミック第9巻/文庫本第5巻)に、こんな話がある。曹操が、郭嘉(カクカ)ら軍師を呼んで一人ずつ報告を聞いている。人材についての報告を聞くシーン。

曹操:次ッ、人材! 郭嘉!

郭嘉:帰服を求めて続々と集まってくる諸侯を編成しておりますが、

    際立って優れた将が見当たらぬのが現状です。

曹操:話を先へ

郭嘉:また抜擢しようにも、凡庸なる将のもとに優れた兵卒がおるとも思えません。

曹操:先へ

郭嘉:…

曹操:答えの用意されておらぬ経過報告はいらん!

郭嘉:…

曹操:人材の登用は理(ことわり)だけで推し量るものではない。

郭嘉:…

曹操:明朝、捕虜を含め、全ての兵士を練兵で検分する。兵を塊として見よ。

    力を発している塊を見つければ、そこに実際に率いている者をみつけよ。

    次ッ!

この曹操に思い入れがないと分かりづらいと思うが、この会話はズシリと来た。自分は経過報告しかしていなかったか、自分にとっての常識だけで判断して嘆くばかりでなかったか。現場の動きを本当に見れているか。色々な言葉が頭を巡る。

エンジニア的力だけで、場をまとめている人もいる。寡黙だが、皆がその人の言葉を待っているようなチームもある。ガンガン飛ばしていくリーダーシップもある。ただただ粛々と指示された仕事をこなしていくチームもある。ひたすら論理的に努める姿に後押しされる時もある。リーダーシップの姿は様々だけれど、でも存在はしている。

そうしたモノをきちんと引き継いでいける職場。しかも皆をハッピーにして。本当に作れるのだろうか。バブルで沢山はじけてしまったけれど、世界に名を馳せている比較的小さなデザイン会社は、今でもこれを維持して行っているように見える。そうした所は闊達な議論が立ち上げ当初から消えないのだと思う。そこでは誰かの意見に追従するだけが賢いなどというモラルは恐らく薄い。誤った判断には誤りだと批判できる環境であり、誤解されてもキチンと説明できて挽回することが可能な場が用意されていることだろう。だから暴走しないし、皆で打たれ強くなっていける。

良い人材が少ないと嘆く声はよく聞かされる。それはこの郭嘉(カクカ)の台詞でとまっている状態である場合もありそうだ。

以上。/mitsui