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カルロス・ゴーンについて

カルロス・ゴーン被告逮捕から今まで 日産自動車株式会社の前会長カルロス・ゴーン被告(64)が昨年の11月、役員報酬を過少申告した有価証券報告書の虚偽申告により得た金を私的に利用していた、という疑いから、金融商品取引法違反の容疑で逮捕された。事件の発覚から二か月近く経過したが、カルロス・ゴーン被告側と原告側の議論はいまだ平行線となっている。 現在もゴーン被告の勾留は東京拘置所にて続いている。ゴーン被告は体にトラッキング用のGPSを装着するといった、あらゆる条件を吞むとしたうえでの保釈を要求しているものの、東京地裁は二度目の保釈請求を却下するととの意向 を先日明らかとした。 ゴーン被告の妻キャロル氏もゴーン被告に対する拘置所での不当な扱いに対する声明を出しており、強く心配していると述べている。キャロル氏は、夫であるゴーン被告は拘置所内で高熱を出しているものの、医師によるケアが受けられていないとして、東京拘置所側の対応に対して激しい非難をしている。 家族およびゴーン被告本人は一貫してゴーン被告の無実を主張しているものの、自体は終始平行線をたどっている。 カルロス・ゴーン被告の勾留はさらに長期化する模様 東京拘置所に勾留されてからすでに二か月余り経過しているが、ゴーン被告の勾留はさらに長期化するものと考えられる。今後の展開は不明だが、自体が長期化することは避けられそうにない。

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ゴジラ、メイド・イン・チャイナ 子供の頃、よく怪獣遊びをした。レゴで作った町や、枯葉や木切れの大都会を、ビニール製の怪獣を闊歩させた。何をやっていたのかは憶えていないが、それが楽しかったことだけは分かっている。けれど、その怪獣に不満を持っていたのも憶えている。怪獣の目や模様の塗り方が雑だった。今見ると昔の映像はチャッチィけれど、当時の私の目にはリアルで、当時の怪獣のオモチャは、たとえ高いものであっても、かなりチャッチィものだった。材質もデザインも、色の塗り方も、子供だましの域のものが多かった。この白い点が、もう0.5ミリ右に寄っていて欲しいとか思って遊んでいた。だから自分で描き足したり、ヤスリをかけたりして壊して(?)いった。親から見ればゴミのようなものが、私の宝であった。 その頃から約30年を経て、驚きに出会った。バンダイ製「ゴジラ名鑑」。そもそも本物の怪獣デザインを担当するような方が高々8cm程のゴジラをデザインする。そしてそれが200円で販売される。完全な通常の量産品。そのこと自体が驚きだが、実物を手に取ると更に驚きが深まる。 手足の爪の塗装は二重になされている。一度薄い色が塗られ、その上に少し濃い目の黄色っぽい色が塗られる。発色を考えているのかもしれない。目も少なくとも二工程はかかっている。塗りだけじゃなく細部にわたるまで、心憎い「作り」をしている。型が取り易く組み立て易く、部品に分けるところにも感心する。ここで組み立てるようにすればゴジラ本来の姿を崩すことなく組み立てられるんだ。私のような素人目にも、たぶん製造工程で何か手落ちがあっても、最終製品にでる悪影響を最小限に抑えられるようにデザインされているのが分かる。子供の頃欲しかったゴジラがここにある。手に持ち色々な角度から眺めてみる。もう帰れない子供時代を懐かしく思う。あぁこうした本気で作られたオモチャで遊びたかった。これが量産されていることに溜息が出る。 複数種類あるゴジラで共通しているのは、ゴジラの背びれ(?)の部分が体と一体化していない点。背びれを持つと引っ張るようにして取り外すことが出来る。そして、その背びれの塗装がされていない素材地のところに「CHINA」の文字。 どんな工場でこのゴジラが生産されているんだろうと想像する。どう考えても、昔のゴジラに対する想いが強い人達を集められたとは思いにくい。教育のために何本か映画を見たかもしれないが、後付でゴジラの記憶をインプットされた方々が、この製造に関わっていると想像する。しかし、それを手にして眺める私達の気持ちをよく分かっている。数センチのモノだからこそ、塗りの正確さも、従来製品よりも厳しく、スキルが要求される。もしかしたらかなり機械化されているのかもしれないが、200円で販売されるものである、人力で作られていると想像する方が自然だろう。 中国の力は様々なところで報道されているので、周知のことだ。しかしその実力をまざまざと見せ付けられる思いがする。ただ労働力が安いのではない。その製品を実際に手に取る人の心の機微に触れる仕事をしているのである。もちろんバンダイの管理体制の勝利の面も強いだろう。しかし、これはメイド・イン・チャイナである。 近い将来、Webのデザイン界にもチャイナパワーが入って来る予感がする。その時、日本語も英語にも長けた中国デザイナが口にする言葉が頭に浮かぶ、「日本のデザイナ、日本人の心、分かってないね」。 別に私は国粋主義者でもないし、文部省の定義するような愛国心も持ってはいない。しかし、屈辱だと感じると思う。世界中が繋がっているインターネットの中で国を意識するのは変な話だと思うけれど、それでも日本にアピールするデザインは、日本に住んでいる者達(ここは国籍不問)が長けていたいじゃないか。 Webデザインの分野は、まだまだビジネスの側面では「お飾り」として認識されている。GIFパーツが一個数百円でやり取りされている。着せ替え人形に騙されてくれるほど、エンドユーザは馬鹿じゃないし、甘くない。そんなやり方で、訪れたユーザに何かを直訴することは難しいのだ。しかしどんな理想論も正論も、価格の前には説得力が落ちる。中国の労働単価は驚くほど安い。私一人の単価で十人も二十人も雇える。十人のユーザビリティテスタ付きのデザイナと張り合うのは、常人には難しいだろう。そして実に勤勉だ。言葉の壁はさほど高くないかもしれない。この流れの先には、デザインの中国発注も絵空事ではない。アニメの作画をアジアで行っていくように、Web制作もそうなっていくかもしれない。そしてその理由が、ただ「安い」だけではなく、「理にかなったデザイン」になるかもしれない。 Ridualを見せに行脚していると、どちらかと言うと最新技術との接点に関する質問を受ける。そしてそれらをサポートできないと興味がないと言われる。しかし、いざネットでモノを買うなり予約するなりする際に、日本のサイトの平均値が見えてくる。何故そのページの後にこのページが出現するのか理解できないことが頻発する。購入中に自分が何処にいるのか分からなくなる。買いたいのに買う手続きが分からなくて文字通り右往左往する。技術とか見た目とか、そんなレベルでなく、頭を抱えるサイトはゴロゴロしている。最新技術がどうとか以前に、情報のデザインをすべきだと言いたくなる。 情報デザインは、別に特別なことをする訳じゃない。隣の人が迷わないようなサイトを作ること、自分の親や近所の人が迷わないサイトを作ること。そうしたことの延長線にあることだ。こんな場合ヒトはどのように動くのか、そんなことに注意を払っていくことが原点だ。それは、ゴジラファンがゴジラ名鑑の人形を持ったときにどう感じるのかを想定して製造されるのと無縁ではない。有形の量産品に魂を込めて作ることが出来るなら、無形の情報デザインもそれほど困難ではないだろう。いや、既に多くの海外勢がこの業界にも来ていて、私が見えていないだけかもしれない。 外国勢に自分達の力量のなさを指摘されるのを屈辱とは思うが、でも同時にワクワクするという感じもする。誰が作ったかに依らず、今でも素敵なサイトを見つけたら、「やられたなぁ」と言いつつ向上心に火が灯る。もっと良いものを作ろう、作りたい、しっかりしなきゃ。そんな気持ちが湧き上がる。 そんな炎の燃料は、やはり頑張る意思と頑張りしかないだろう。先日の日経ビジネスの特集のタイトルが手厳しい、「もっと働け日本人」。しかし中を読むと励まされる。身近に頑張っている人たちが既にいる。頑張れない訳じゃない。やる方法はある。方法もボトムアップもトップダウンもある。しかも書かれてある方法は奇抜なものじゃない、今当たり前と思っている事柄を別の角度から見直して、強靭な意志で実行しているだけ。そうやれば出来る。そうすれば、より高みに到達できる。 人参をぶら下げられて、走っていたこともある。その人参は、僅かな格差であったり、地位だったり。でも今は、ぶら下げる人参を、かなり自分で選べる状況になってきた。何を得るために今を頑張っているのか。自分でリスクを負って生きるとはそういうことなのだろう。本質的な問題に直面している。きっと、誰もが。 日経ビジネス 2003年01月27日号/特集:もっと働け日本人 以上。/mitsui

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セミナー 1996年当時、マルチメディアスクールに所属していたこともあり、頻繁にセミナーや授業に参加した。PhotoshopやIllustratorを学んだのはそこでだった。最近、後進育成という言葉を私自身が口にするようになっているので、現状を知りたくて、時間と予算があればセミナーに参加している。 5年強を経て、何か異なるものを感じている。5年前、教えてくれたのは、「オペレーション」だった。ソフトの使い方。与えられた教材に従って、例題通りのモノをどう作るかを教わる。もちろんテクスチャーとか形状とか自分の好みに合わせる自由度は当時もあった。しかし、どこに使用するツールが隠れているのか、それを使うと何ができるのか、という知識。 最近のセミナーで特に感じることは、講師の方の自己流の作品の作るプロセスを語っている。先日受講したものは、きちんとバインダーに収まった教科書は存在したが、開いたのは数回。数時間毎の休憩前に、「だいたい今でこの辺りまで、やったことになります」という台詞と共に数秒開くだけ。授業のやり方も、生徒がついてきているかどうか、殆ど見ない。ツールの呼び出し方や操作法は詳しく説明するけれど、「そうした操作法を覚えてもしょうがないでしょ」と背中が語っている。 このソフトで一体何が出来るのか、そして一般的にはどう操作するのか、その二点だけが分かっていれば、後は自分の才能と相談して格闘しなさい、と言っている。先生の言う通りの作品が出来たところで意味はない。ソフトを学ぶ気概がある者は、そのセミナー終了後から色々とドロドロな開発の道へと進んでいく。それが分かっているからこそ、基本的なオペレーションに重点を置かずに、どこまで到達できるのかを見せてくれている。セミナーの間中、基本的に私が出来たことは、講師の引き出してくるツールの場所を確認して、目の前に示される作例よりも見劣りするサンプルを作った程度。与えられた時間の殆どを、講師の手さばきを見ていた。 あ、これが技術を盗むということなんだ。そう思えた。大きな展示会に著名なデザイナが目の前で何か作ってくれる時、目を皿のようにして見つめていた。Photoshopも、Painterもそうして益々好きになって行ったことを思い出す。最近のセミナーは、一概に言えるものではないのだろうけれど、テクニック公開道場の匂いがする。ここで盗むこと自体を体験しろ、と。 3Dソフトのセミナーで、講師は最後にこう言った、「この3Dソフトを、テキストエディタのように使いこなしてください」。アイデアが浮かんだら、最も軽いアプリであるテキストエディタでアイデアのスケッチをするように、3Dで記録しろ、というのである。手足のようにそのソフトを使えるようになれ、と。そして、そのセミナーの中で見せられた実演は、そうした神業と思えるようなことが実際に出来るのだという事実だった。 既成の「授業」に慣れている者には苦しい時間だったと思う。テキストはあったが見られることもなく、少しでも聞き逃したら次のテクニックに話題が移っている。ついて来ているのかの確認も殆どない。しかし、こんなチャンスはないのである。手取り足取り教えられることはないにしろ、一流のアトリエでその作る様を一緒に体験できているのである。 綺麗な教科書、考え抜かれた例題、やさしい先生。そんな既存のイメージは殆どない。しかし有意義な時間。綺麗な教科書よりも使えるデータ、決まったパターンの作例ではなくオンデマンドでインタラクティブな授業の進み方、良い先生であるよりもその道の一流の専門家。教育業界は、こんな風に変わってきているのかもしれない。 複数のセミナーで共通なのは、アイデアの源みたいなものを一生懸命教えてくれること。それは商売ネタだろうと思うようなことを語ってくれる。自分がどうやってこのアイデアにたどり着いたか、自分は何を参考にしたか。「マネをした」という表現すら使う人もいる。もちろん盗作とかのレベルではない。最初の開拓者への敬意も忘れていない。そのアイデア帖を公開するような行為は、実は「皆で」よりよい世界へ行こうよ、と言っているようにさえ見える。アイデアを独占する方向ではない。皆でこれを土台にもっと上に行ってみないか、と誘っている。「今明かしたアイデアにピンときたら、凄いものを作って、後日僕を感動させてくれ」。ここでは最早先生と生徒という関係ではない、共にレギュラー争いをする先輩と後輩みたいな関係に近い。 数年前シリコンバレーで企業の壁を超えて技術論議が、カフェ等でよく行われていると聞いて羨ましいと感じていた。でも実はそんなことは既に日本でも行われていたのだ。有料のセミナーだけではない。有志が、本当に志がある者達がボランティアで様々な啓蒙活動をしている。頭が下がる。セミナー後も1つのURLが知らされる。そこに肝心なことは書かれてある。セミナー中も必死でメモる必要もない。いい時代になったと感じる。ここで楽してたらバチが当たりそうだ。 でも、問題も生んでいる気がする。まず受け手と与える側のズレの問題。セミナーの姿勢が変わっているのであれば、受ける側の姿勢も変わっていないとズレが起きるのが道理だ。本屋で三千円で売っている本を読めば分かることを、数万かけて習いに来る人もまだ居るだろう。期待が高すぎて、講師の能力がついて行かない場合もあるだろう。後者は特に展示会のサポートブースでよく起こる。質問しても質問内容が分からないベンダー社員が居て、横に立っている見知らぬお客さんが教えてくれたりもする。 進んでいる講師陣のレベルまで、私たちは追いついていっているだろうか。そうした底上げ啓蒙活動も、これから益々必要になるのかもしれない。「ゆとり」教育の名の下に、上げ膳的据え膳的に授業を受ける子も増えるかもしれない。何を知りたくてここに居るのか、何を伝えたくて教壇に立つのか。昔は考えなくても良かった問題が目の前に横たわる。 先日北陸でのFlashセミナーに参加した。失礼ながら想像していたのは少し暗めの進行。しかし講師の方の実力もさることながら、参加者の熱意が伝わってくるものだった。笑うべきところでしっかり笑い、唸るところでも声が聞こえる。首都圏のセミナーより反応がストレートだ。講師の側もノリが良かったんではないだろうか。 学ぶ意思、伝えたい意思、それぞれのレベルの上位層(平均層ではない)が徐々に上がってきている予感がする。これが広まって欲しい。格差が広がっている危機感が外れますように。 以上。/mitsui

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希望 Ridualの話をさせてもらうとき、幾つかのパターンで話させてもらう。Webサイト作りに一番大切なのは時間である、そして最終成果物を見て、今現在何をすべきか考えるべきである、と。 時間の話はとにかく立ち止まっては駄目だの一言に尽きる。人は考えるものである、だから時間を与えては考えてしまう。逆説じみているが、サイトはアイデアが浮かんだならそれが旬である、出来得る限り迅速に作り上げた方が良い。どんなに更に良いアイデアが浮かんでも、全体の調整からし直すのであれば黙った方が良いときもある。完成しない作業はデザイナを殺す。 最終成果物の話は、先日は国語のテストを例にして話した。国語の読解問題。問題文を読んでから設問を見るか、設問を読んでから問題文を見るか。決められた時間内に迅速に答えようとするなら、大半の人が後者を選ぶだろう。サイト作りも同じだと思う。クライアントが抱えている状況(問題文)を読んでから、どうしましょうかと考えていては駄目である。ドキュメントの提出期限が迫ってから、どういったフォーマットで資料出せばいいかと考えながらワードを開いては駄目である。運用を開始してからログの解析方法やそのフィードバックを考えていては駄目なのである。何事も先手先手で先ず設問となることを頭に入れてから、目の前の状況に接していくべきだ。 そうした体制作りは、アウトプットとしては提出物の体裁であったり種類であったり数だったりするのだが、多分先ず「設問を読む」という部分に理解や共感が無くて形から入ってしまうと、加速装置のつもりのワークフローが、単なる負荷になってしまいかねない。こうあらねばならない、と頑なにデザイナがワードやエクセルで青くなっているのは哀しい。 自分達がやり続けていける体制を早くから確立できたところは成功に進んでいける。成功は経済状況ではない。仕事をしている開発者が活き活きしている状況を指す。何のために働いているのか。まるで苦行のようなものだと割り切っている人にもたくさん会って来た。労働はエンターテイメントではない? 正直言って賛成できない。店員が輝いていない店で、好んで買い物をするだろうか。 先日のとあるセミナーで、Ridualをお見せしたときに衝撃的なコメントを頂いた。「仕事をしていくうえで、希望が持てました」。別にRidualを使うと、薔薇色のサイト構築環境になる等と誇大広告をした訳ではない。サイトマップが自動生成できて、それなりのファイル解析が行える。そのためには色々と憶えることも多々ある。でも既存のツール群と連携する道は開けている。それは例えば、RidualではXMLとJava。そういったいつもの内容を話しただけであった。 このコメントは、私の中で、当たって欲しくない予感を更に強めた。最近サイト作りって魅力が薄れてきているんじゃないか、という予感。華々しいことをしている人はとっても限られていて、新しくこの世界に入ってきた人は昔の雑巾がけみたいな修行時代がずーっと続いているような予感。アイデアは浮かんでも、それを実装するための時間が別のことに丸呑みされて悲鳴をあげたくなっているのに、それでも声を押し殺して耐えているような予感。 どんな時にそんな予感が背筋をつたわるのか。例えば、自分でサイトデザインしていてブラウザチェックする時。例えば、読まれないと分かっているドキュメントを山ほど書かなくてはならなくなった深夜のオフィス。例えば、子供と丸々一週間会えないとき。子供に誇りたい仕事の内容に不毛感を感じるとき。 でも自分でそんな嫌な予感を打ち消すように、上や前を向ける時もある。優れたサイトに出会った時。優れたサイト開発武勇伝に触れた時。活き活きとした誰かに業界内で会えた時。 授業参観なんかで学校の子供達に直面するとき、目が空ろだと気が付くと悲しくなる。サイト開発者がヘトヘトで参っていると、話していて辛くなる。もっと楽しい世界だったじゃないか、と叫びたくなる。いつからこんな色に染まってしまったのだろう。 昨年3Dのセッションに行ったとき、反対の意味で背中がゾクゾクした。活気があるのだ。7年ほど前のWebのセッションを思い出した。その時、そこにいる人たちは、基本的にはWeb屋さんではない。ゲーム屋さんだ。ここに流れていってしまったんだ、と直感した。しかし、目の前で話されているセッションの内容は、3Dコンテンツの作成素材や完成映像などのリソース管理システムの話だ。Webでもコンテンツマネージメント系の話は面倒で自由度が少ないので敬遠されがちだ。しかしそこでは、活気を失わずに聞かれている。 3Dの世界は、レンダリングに時間もCPUもかかるので、その分無駄にできない。誰もが初めて見る映像にチャレンジできる土壌もあって、管理系には力が入る。そういった体制がしっかりと根付いている。しかも、発売してみないと莫大なコストの回収ができるかどうか分からない、というリスク系チャレンジ。活気ある者たちを惹き付ける魅力に溢れている。しかし、多分それだけじゃない。やはりゲーム開発会社の人の活かし方が上手いのだと思う。育て方が上手いのだと思う。楽しんで開発しているんだと思う。 「仕事をしていくうえで、希望が持てました」、とコメントした方は、現実のサイト開発に何を見ているのだろう。延々と続くエンジニアとデザイナの確執だろうか、延々と続くブラウザとの格闘だろうか。延々と続く散在するファイルとの闘いだろうか。でも、多分まだこの業界から離れられないのは、やはりWebに魅力があるからだろう。 情報にアクセスすること自体が大変だった数年前から、ビデオやライブが流れるようになるまで、たった数年。日々流れてくる情報に一喜一憂し、時に流され、自分を見失いもするが、助け手をネットの中に見つけたりもする。情報の道路工事現場に輝く魅力は、実は少しもくすんではいない。だからここから離れられない。そうした仕事をすることに誇りを持てる、だから更に離れ難い。 開発ツールやメンテナンスツールは色々と出てくる。でももっとデザイナを守ってくれるツールが出て欲しい。Ridualに込めた願いである。私たちは楽をしたいんじゃない、良いモノを作りたいんだ。 最後にWebデザイナの女工哀史的な状況を想う度に、浮かんでくる詩を。僕らはもっと活き活きできる。 ぼろぼろな駝鳥 何が面白くて駝鳥を飼ふのだ。 動物園の四坪半のぬかるみの中では、…

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人材育成と子分育て 人、特に後継者を育てる方法は多々あるだろうが、大きく二つに大別できる気がしている。特定の候補者に集中して育てていくタイプと、全体を対象に育てながら結果として数人に絞るタイプ。 どちらかというと、前者が圧倒的に多く目につく。これはと思う人間にどんどん仕込んでいく。常に侍らせる。何事も相談し、相談させる。上司が行けない会議でも、あたかも自分がいるかのような雰囲気を作り出す。 しかし、難点もある。その本人が高ぶらないか。結局決断を聞きに上司の所に行くので、単なる伝書鳩になっていないか。本人が自分のカラーを出すのを躊躇していないか。その本人はどうやって、「その次」を育てていくのか。そのタイミングはいつからか。その人ばかりが部長室に呼ばれて、チームメンバは平気なのか。実力はチームメンバ誰もが認めているのか。結局仕事の効率が良くなったのは、楽になったのは、その上司だけではないのか。 後継育成は一時の話ではない。絶え間なく続いていくものだし、後継者を意識することは、自分の引退も意識すべきものなのかもしれない。但し、引退とは文字通りの意味だけでなく、新しい開拓に出ることも意味する。自分が開拓した分野を、惜しげもなく次に譲り、新たな場に進んでいく方を何人か見てきている。そうした引退には、淋しさはない。荒野に向かっていく凛とした姿。あるいは、憧れ。あるいは、世俗的にもっと楽に生きればいいのにと、勿体無い視線。しかしやはり根底には尊敬の眼差し。 決められた一人、あるいは少数を育てていくのに対して、一度に全員を巻き込んでいく教育もある。上司が、誰とでも隔てなく話し、権限をプロジェクト毎にまわしていく。それぞれに適切にアドバイスし、自分のコピーを育てるのではなく、新たなリーダを育てる。自分のカラーを継承することは余り頭に無いように見える。いや、そもそもその上司自身が常にそのチームの中で影響を受けつつ変わってきている事を自覚している風にさえ見る。 だから、ある時点である仕事を任せられる人を指名せよ、と言われたら。多分毎回違う人材が頭に浮かんでいる。だからプロジェクトの方向性をみつつ、今回は誰々に任せる、と振り分けができるのだと予想する。当然ながら、上司に求められる能力は圧倒的に高度だ。仕事を見つつ、人も見る。でも、そのための役職なんだろう、本来は。それで、そんな上司から意外な局面で指名されると、アドレナリンが噴き出す。既存の忠誠心ではない忠誠心に火が灯る。 どちらのチームが強いか。根本的にはそのチームのメンバに依る。誰でも彼でも、チームを率いていける訳ではないし、仲の良い悪いもあるだろう。しかし、私の少ない経験では後者のほうが、打たれ強い。多少の波風では余りパニックにならない。いつも自分達なりに決断して実行していくことが訓練されているからだと思う。しかし、前者は後継者が余程リキを入れて育てていないと、チームメンバ各自が自分には命令が降りてくるものだと勘違いしていく。自分で考えないで、指示された方向に進むだけだと、ある意味楽である。どんなに愚痴や文句を言っても、決める責任はやはり重い。だから人は流される、楽な方へと。待ちうけモード。 デザイナは個性的な人が多い。昔はそれは褒め言葉だったけれど、最近は違う意味にも使われる。「コミュニケーションができない」という意味にも使われる。同じ仕事仲間、ツール仲間とは話ができる。しかし、その枠を超えられない。批判は多々聞くけれど、でもそれはエンジニアも同じこと。デザイナに負けず劣らぬ人見知りの強いエンジニアは多い。 そうした人たちが、上司やクライアントとの接点を減らすと、その人見知り度が加速する。全然話が通じなくなる。そうした問題を、その人は人前に出ないんだと片付けることはできない。得てして、ユーザーインターフェースの良いディレクタが倒れて、どうしてもそうした人が説明しなければならない場面は、一番辛い状況で降って来るものである。 また、どんなに良い後継者候補でも、その上司としか話さないと、その上司の癖にしか反応しなくなる。そうしたことは、こんな風に提案するんだよ。その上司にしか通用しないノウハウが誇りになる。その上司専属になった「かつての」有能な人は、少し哀れだ。 三国志を新たな視点と描写力で語り継いでいるコミック:蒼天航路 101話(コミック第9巻/文庫本第5巻)に、こんな話がある。曹操が、郭嘉(カクカ)ら軍師を呼んで一人ずつ報告を聞いている。人材についての報告を聞くシーン。 曹操:次ッ、人材! 郭嘉! 郭嘉:帰服を求めて続々と集まってくる諸侯を編成しておりますが、     際立って優れた将が見当たらぬのが現状です。 曹操:話を先へ 郭嘉:また抜擢しようにも、凡庸なる将のもとに優れた兵卒がおるとも思えません。 曹操:先へ…

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壁 Webの目に見える最大の利点は何か。人によって答えは違うだろうが、私にとっては情報へのアクセススピード。ここが根幹に感じるから、Webサイトが増えるたびに議論される、「中抜き」論は異論なく受け入れられる。様々な情報伝達の、ただ情報を伝達するだけの層が薄くなる現象。お客さんの声を、色んなモノを通さずに、ダイレクトに本当に必要な部署や個人が受け取れるということ。 だからサイト設計を行うときは、どんなニーズに対してどんなアクセス経路を用意するかが最大の関心事。勿論見た目上でのアクセスし易いインターフェースの大切さを軽視する気はない。けれど、根幹の部分が継ぎはぎだらけで、情報の流れを一目で見れない状況では、見た目をどんなに頑張っても、限界が近いと思う。 だからRidualは、どんな情報(コンテンツ)をどんな順序に並べるかだけを記述する。それがやりたかった。そうやってサイトの流れができてから、グラフィックデザインに着手する。そうした流れは、Illustratorでサイトマップを作る人も、インスピレーションで作り始める人もマインドは同じだろう。 ここで最近、壁を感じている。コンテンツの順序を考える際に、大前提にしている事が揺らいでいる気がしている。何を最大の前提にしているのか。それは「”本人”が操作すること」。その情報をアクセスしている人、その情報を必要とし、活用する本人、その人がどう考えてどう行動するかを考えている。間違っても代理の人が行うことは考えていない。代理の人に同じようなマインドが乗り移っていればまだ良いけれど、ただ仕事を振られました、という人では明らかに行動パターンが違ってくると思っている。 情報探索型のサイトであれば、結果は同じようなものかもしれない。けれど、処理系のWebアプリケーションに近づくほど差が出るだろう。例えば、グループウェア。会議室の予約など、今まで自席を離れ特定の場所まで移動して所定の紙に何かを書く…といった作業が必要だったのに、それが自席でキー操作だけでできるようになる。しかし、運用してみると、実際にその入力を本人が行わなかったりする。結果は、会議室の予約に、セクレタリー的な人の名前が延々と続いて、結局誰が何のために使うのか分からない。 人間は最高のインターフェースである。「おい」だけで、お茶や書類の準備などを識別して用意できるデバイスは他にない。しかし、そこにコストをかけないで、或いはより高度な情報処理に人間を使おうよ、というのがWebのコンセプトだと思う。しかし、人は楽な方へと流れる。「おい」で済むのであれば、わざわざブラウザで何ページかを繰って情報入力などはしない。偉くなった順から、この流れに乗る。 しかも、こうしたシステムの導入には、そうした「偉いさん」が権限を持って吟味する。どう考えても、この場にいる人は自分でこうした操作をしないだろうと思われる方々に囲まれた場で、提案する時は自分の存在意義を考え込んでしまう。決して使われないものを、決して使わない人に説明すること程空しいものはない。 こうしたズレの原因は何だろう。人間の性質のせいにしてしまっては話が進まない。デザイナの端くれとしては、やはりインターフェースの問題として捉えたい。今のインターフェースが分かりにくいから、この人たちは自分で操作することを避けるのか。もう少し情報へのアクセスがシンプルなら、この人たちでも自分で操作してくれるだろうか。 ここがチャレンジのしどころである。しかし、始める前から諦めも頭の中によぎる。どんなに良いインターフェースを作っても、結局触ってもらえないのではないだろうか。結局机上の議論だけで、良い悪いを評価されて決まっていくのではないだろうか。 多分泣き言を言うには早すぎるのだろう、パソコンが一人一台になる前にも、今の状況を見据えて絶望的に見える説得を長年続けてきた先輩方が居るのだから。どうせ聞いて貰えない、どうせ触ってもらえないと愚痴を言っても何も状況は改善されない。良いインターフェースを目指す道は遠い。 もう一つ気になっていることがある。最近自分でも少し戸惑っているのだが、自分で予約なり処理ができるようになったことで、自分の雑用が増えた気がしていることだ。単純に他の人(特にその作業で利益を上げる人達)がやるべき仕事の一部をやらされているような気分。 アプリケーションとしての出来はよいのだろう。情報入力もそんなにストレスを感じないように出来ている。でも、塵も積もれば。少しの情報処理のために費やされる時間が総計として増加している気がする。Webで処理できるようにして、その部署は楽になったかもしれないが、実際に使う側の処理が増えているようなケース。ただ仕事を他人に投げただけ。はっきり言えば「中抜け」されるべき「中」を太らせたようなケース。 こうした問題や、先の権限者の使用状況の問題には、実は共通点がある。それは業務など、処理のレベルよりも一つ上のレベルに問題がある可能性があることだ。例えば一つのプロジェクトを起こすのに必要な書類が複数あって、それらに毎回同じ情報を記入しなければならないようなもの。入力は一回で、後は自動に処理することは技術的には難しくない。けれど一枚にまとめて申請できるようにする方法もある。こうした問題は、多分システムだけでは無理で業務改革とかのレベルまで行かないと、解決したことにはならないケースが出てくる。 実際、コンテンツの流れを描きながら、実はこれって業務フローじゃないかと思わされることは多い。同時に、こんなのは、業務を担当している人達でまず用意して欲しいなぁ、とも。更に、根本的な解決をするには、Web構築ではない話が必要だったりして、それはデザイナに与えられている職務を超えている場合が多い。 Webは情報経路としては地位を確立しつつある。今度は活用経路としての方向に向かっている。ブラウザが単なる情報の出口ではなく、情報の入り口や、加工の窓口になる。それは今更強調するまでもない話だろうけれど、今後はもっと顕著になるだろう。そうした状況では、デザイナは、コンサルやエンジニアの領域に踏み込まねばならず、エンジニアもデザイナやコンサルの領域に手を出さざるを得なくなる。 Webは、情報へのアクセススピードを加速させ、次は個々人の職務内容を超えるスピードを加速させつつあるのかもしれない。Webが壊しているのは、時間や空間といった壁だけではなくなってきている。 以上。/mitsui ps. Ridual#54には、デジハリセミナーへの参加者へのお礼として仕掛けがしてあります。lib/sp/Ridual.jar…

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儲けられないデザイナは悪いデザイナか Ridualの製品化を考えて市場調査を進めていて、気になる動きを感じてきた。最近のデザイナに対する要求で、「儲けることができるか」という点への力点を強く感じる点だ。 自分の技術を高めることと、それで儲けるられることとは少し異なるスキルが必要だ。自分の技術を適正価格で売る技術。私見ではデザイナと呼ばれる人にこの熟練者は少なく、この技術に長けるようになると肩書きはともかくデザイナではなくっている人が多い気がする。勿論両立できている人もいて、それはまさに超人の域である。 別に清貧を勧めている訳ではない。デザイナが豊かにあるべきだという論を撤回する訳でもない。デザイナが儲けるスキルを身につける事自身には大賛成だ。しかし、何か違和感を感じる。更にデザイナを窮地に追い込んでいる気がするのだ。 デザイナと一括りに言っても様々な仕事があるだろうが、自分のアイデアを誰かの賛同を得るために「示す」という行為または業務は共通していると思う。相手が上司だろうが、クライアントだろうが、中継ぎ業者であろうが、そのような状況は存在する。その場合、旨く相手に伝える術(すべ)という意味では、こうしたスキルは必須だろう。しかし、それを金に換えるという、錬金術の域に関しては少し別分野ではないかと思っている。 金儲けへの接点をなくして職人について議論することは、青臭い理想論のように思われるだろう。特にこの不況期にあっては、金儲けに繋がらない話は議論の対象にもならないかもしれない。しかし、一緒にサイト構築をする時に、パートナーに求めるのモノは、金計算の鋭さではなく、「職人的こだわり」である一面は否定できない。デザイン修正をお願いするたびに、それは0.2人月かかります、と言われたら興ざめだ。チーム内にあっては職人であり、客に対しては徹底的なセールスマンであることは可能であろうが、それは万人が達せられる域ではないかもしれない。 諦めからそう思うのではなく、個人商店ならいざ知らず、ある程度の規模のデザインチームにおいて、分業って何だろうと考えるのである。こだわりを筋としたデザイナを擁するチームの営業は、その自分達の強みを最大限にアピールして、売り込むスキルを持つべきだと思う。デザイナが自分の殻の中だけに閉じ篭るのを良しとはしないが、何もかもデザイナに求めるのではなく、分業をちゃんとやろうよ、と言いたい。 優れたデザイナ、特にWebデザイナに求められる資質は、短期間に揺れ動いている。グラフィックから、情報整理、バックエンド(DB)技術、広告手法、マーケティング、更に経営コンサルに近いものまで。仮にこれらを習得することが可能だとして、皆がこれを求めたら、どのデザイナも独立してしまう。そんな状態が良いのだろうか。そして、そうしたデザイナを擁する企業のお偉方は、一体何をするのだろう、という疑問に答えが出ない。経営者を代わっても良いほどのスキルを要求しているのだから。 デザイナのスキル養成に関する道は幾つも出てきた。しかし、デザイナを擁する上司の養成コースの話は余り聞かない。対して、エンジニア集団のマネージャ育成コースはそこそこあるし、通常のビジネスマネージャ育成コースはもっとある。デザイナは数が少ないのかもしれないが、適正にスキルを発揮するようにするマネージメント方法論が育っていない。職人気質のデザイナが率いる一子相伝的小集団時代が長かったせいかもしれない。 しかし、時代はデザインの方に少しは向いている。日産の復活劇にデザインがどれほど重要だったか等は様々な形で報道されている。デザインを基本路線とするプロダクションが、ビジネスWebサイトを成功に導いている例も多い。 私の頭の中で、デザイナという社員のポジションについて、ずっとすっきりしない状態が続いていたのだが、最近少し納得できる言葉に出会った。日経ビジネス等三誌が合同編集した特集号「情報力を鍛え直す」で、P.F.ドラッガー氏が「テクノロジスト」という言葉を使っている。 テクノロジストは、単なるホワイトカラーではない。第一の特徴は、「出世を望まず、専門を愛す」という点。更に、「テクノロジストに通常の管理はいらない」、「能力が高く責任感が強くテクノロジストは勤務管理がなくても、働きに手を抜くことはない」から。「経営者は部下の管理以外に時間を使えるようになる」。 自分の何年か先を考えるとき、これで良いかどうかは置いておいて、なんとなくしっくり来た。但し勿論上記で定義される人種は最近に出てきた新種ではない。直ぐに頭に浮かぶのは、熟練印刷おじさん達や、油まみれになりながらコンマ数ミリの精度のレンズ職人、酒蔵の酒職人…等など、何故か伝統的な分野。でも多分、ドラッガー氏の言っているテクノロジストは、IT分野の旗手たちに焦点があっていて、現時点身についている技術にこだわらずに最新最良の技術を追い求めていける人達のことだろう。常に最新情報にアンテナを張り、与えられた課題に最良の「解」を提供することに全力を注ぎたい人達。 IT不況が続くおかげで、モティベーション(動機付け)という分野にも注目が集まっている。どうすれば、「やる気」がでるのか。上司も部下も未来に希望を抱けない。それなしに続けられる生産活動のアウトプットの品質に問題が出る。品質に問題のある製品は市場に受け入れられない。更に業績が悪化する。更に明るい未来を想えない。…こうした悪循環を絶つために、経営層として何が出来るのか。出世を望まない人種に、今までの人参ぶら下げ作戦は通用しない。 時代は、デザイナに更に何かを求める時代から、デザイナを活用する人達に何かを求める時代へと移行している。もはや「僕ぁ、デザイン分からないんだよね」なんて悠長に言っている時代ではない。自分の手駒の力をどこまで引き出せるか、それが手腕と言うものだ。私の感覚では、デザイナに求められる能力は、そうした自分の「親」を見定める力だと思う。自分が「親」になる能力は、そうした気質のある人の分野だろう。見定める力が育てば、進む道を決断する「勇気」が次に必要なモノかもしれない。勿論問題はデザイナだけではない、Webは様々な分野で「中抜け」を誘発している。おかげで様々な「新人類」が誕生している。Flashのようなデザイナとエンジニアの直系子孫をどうハンドリングする。今までのマネージメント手法では舵取りができないのは見えてきている。 私の結論はいつも、「人」に帰着する。自分達の才を最大限引き出せる職場で働きたい。それは自分が経営者でない限り、そういった上司とがっぷり四つに組んで進みたいということを意味する。「儲けられないデザイナ」の良し悪しを品定めするだけの上司は要らない。「儲けられないデザイナ」で如何に儲けるかを立案できる上司が必要だ。勿論、デザイナもオンブに抱っこではなくて。 以上。/mitsui

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体験と直感 Webは、「体験」を提供する場になっている、そうだ。 しかし、開発現場では、色々なムズムズがある。例えば、ある場面で、Flash を使うべきだと感じたとする。それを関係各所と協議する。そもそもFlashって何?、という所から話す時もある。散々話して、試作も見せて、これ以上何をすれば良いか迷うほど頑張っても、まだOKが出ない時がある。比較表を出せ、と言われる。HTMLやJavaアプレット等ととの比較表。 皆んな、目の前でFlashの動きを見ている、なのに反応がない。表組みにされた文字情報を見て、納得するようだ。サイズはどうだ、開発環境はどうだ。元々の生い立ちが違う技術群を、どう見ても主観を排除できない項目で断じている表が必要になる。作れと言われれば作るが、作りながら昔小学生の頃見た図鑑を思い出す。チーターやイルカや蛇などが左側に並んでいて、右にそれぞれの体長や体重、移動速度等が延々と記されている。それぞれの動物の特性を一望できるのは良いのだが、実際にチーターとイルカが競争するシーンなどは頭に描かなかった。 大きなプロジェクトになればなるほど、当然慎重になる。しかし、そのサイトで何をしたいかが明確であれば、その効果が一番高いものを最優先に考えるべきであろう。ユーザ体験を最優先に提供したいのであれば、それが最大の課題であり、そのために周りをチューニングすればよい。エンドユーザにどう感じて欲しいかという問題は、とりも直さず開発者がどう感じるかという問題でもある。 場面によって、HTMLだけで表現するのが最良の場合もあるし、Flashの場合もあるだろう。Realの時もQuickTimeの時もある。全く画像を使わずに文言で惹き付ける事だって選択肢の一つだ。どれに自分達がビビッと来るか、そうした感動を、開発者が語りたがらないのは、謎を超えて、時に不愉快だ。 目の前で示された試作にどう感じたかを表現しない部隊と仕事をする時、もう帰りたくなる。「ねぇ、この動き、凄いと思わない?」、思わず聞きたくなる。技術的関門が多々あることは、いつものことである。慎重になる姿勢も理解はできる。でもこれだけ、「体験」と騒がれていて、開発の現場でその体験度が示されないのは変ではないか? ユーザの体験を中心に据えた場合、感動が示された後に続く言葉は、「良いと思うよ、でも出来るの?」ではない。「良いと思う、次に何をすれば良いの?」だ。先ず感動ありき、そして壁の見極めと、その壁の攻略法。それがまっとうなWeb開発スタイルだと思う。 料理マンガをチラチラと見ていて思う、「まったりとしていて、云々」。私の頭と味覚系語彙力では、どんな味なのかさっぱり分からない。でも食べさせてもらえるなら、分かるだろう。結構いけてると思ったインターフェースを目の前に広げても、ウンともスンとも答えがない。それどころかウンチクやレシピの「紙」を見せてくれと言う。目の前の料理に感動もせずに、説明書を見て感動できる体質は、不思議だ。 エンジニアとはそういった慎重な生き物なんだという説明もあるかもしれない。しかし、少し前Windowシステムの走りの頃、Motifとかが出たとき、あの頃もエンジニアが狂喜することもなくコードを書いていただろうか。もっと感動してシステムを練り上げていったはずだし、事実私の周りはそうだった。テキストしか表示されない世界に、様々なインタラクションが追加できる。その世界が面白くて、「おぉ」とか「はぁ」とか感嘆符を上げながらマシンに向かっていたのは、私だけではなかった。 Webの強みは、作っている側の人間が、見ている側の人間になれるという点だ。ワークステーションで色々と作りこめても、それを使うのはかなり限られた世界の人間だった。しかし、Webで通常扱う情報は、極めて日常に近い。ビジネス的に成功事例を求められるのも、B2Bも大事だが、B2Cへの期待は大きい。開発者がそのままコンシューマになる分野である。 提案の試作を見せて、その画面でクライアントを感動させられなかったら、それは失敗に近いのだと思う。あるいは、クライアントが無目的なのか。「今見せた情報の塊が、あなたのエンドユーザに届くのです、それを素晴らしいと思いませんか」、という問いかけが、Web屋からの提案だ。それに対して無表情でいられたら、提案した側の気力は萎える。逆に喜んでくれたなら、ここに私達の理解者がいるんだと嬉しくなる。もっと喜ばしてあげたくなる。 いつからエンジニアやクライアントが、自分の感動を信じられなくなったのだろう。あるいはそれを外に出すことを恥じるようになったのだろう。自分達のサイトを見てくれたユーザに何を期待しているのか。訳知り顔で冷静で冷ややかな視線ではないはずだ。提案者が「これ凄いでしょ!」と言い、見た側が「凄い凄い!」と返してくれる、そんな阿吽の呼吸がゴールだと思う。そしてその「凄さ」の中に、落ち着いた凄さもあれば、キャピキャピの凄さもある。だから、「これ凄いでしょ!」というニュアンスも、「どうだ!」と胸を張るものもあれば、無言で突きつけるようなものもあって良い。 動き易い開発チームにいた時、毎日がまるでクラブ活動のノリだった。日々新しい「凄いサイト」を見つけては、「これ見て」と誰かがやる。「おぉ、凄ぇ」と誰かが応える。誰かは「似たの見た事あるよ、どこだっけ」とコメントし、Bookmarkを探す。同時進行で誰かがソースを解析して、「こうやってるんだ」と言い、その周りに人だかりが出来る。 小さな子供が、自分の感動したことを伝えたくて、パタパタしている様子。そんなシンプルな動機が、Web開発者には必要だと思う。自分が感動した、だからあなたにも感動して欲しい、更に自分ももっと感動したい。そんな自己増殖型スパイラル。それはデザイナだけでなく、エンジニアだけでなく、クライアントだけでなく、開発しているサイトに関わる全ての人に伝播して欲しい。 仕事と感動、通常は対極に位置される。でも、Web開発現場は、仕事と感動との距離が近い職場だ。伝統工芸的モノ創りの現場のように、創っていて楽しく、それが売れて尚嬉しく、喜んでもらえて更に幸せ、を目指せる場所。 自分達の本業技能を引き出せる環境が、そうした道に導いてくれる。ここまで進んだIT技術が雑用は引き受けてくれ。全てのブロックを自作して積み上げなければ、高みに行けないのでは嫌だ。機械的に処理できて情報としてまとめて欲しい。私には、ファイルのカウント作業ではなく、そのファイル群をどうしたいのかの判断作業をさせてくれ。そんな環境が欲しい。アイデアの実装に時間をかけさせて欲しい。ミスは不可避だから、自分のも含めて存在するミスを瞬時に感知できる環境も必要だ。 Ridualは、そのための小さな一歩。 以上。/mitsui

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