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機内サービス 約一年ぶりに海外出張に行く。航空会社は最近は○社に決めている。溜まったマイレージが惜しいというのが本音だが、もう一つ理由がある。 この○社の機内サービスは定評がある。悪い方の定評だ。海外旅行を知っている人に、○社で行くと云うと大抵は眉間にしわを寄せる。時には「マゾだったのか?」と真剣に聞く友人や、航空券がそれしかとれなかったのかと同情の眼差しを送ってくれるものもいる。 そんな機内サービスの劣悪さはもちろん乗っている私自身がよく知っている。けれど、○社に乗る理由は、自分の感覚をちょっと確かめたいためだ。機内で快適に過ごせたことなどないので、どうせならちょっと役に立つことをしようと思う。この機内で受けるほぼ全てのサービスが、私にはWeb上の反面教師になる。 先ず客室乗務員。多くが女性であるこの職種の体格を話題にすることは失礼この上ないとは重々承知で書く。体格がミスマッチである。サービスを提供する側の人間が、通路とほぼ同じ幅を持つ。客の誰もが交差して進むことができない。我がもの顔でサービスしてやっているという態度は、サイト管理者を思い起こさせる。セキュリティだ、サーバメンテだ、それぞれに充分に必要性も重要性もある仕事だが、さも自分がこのサイトの大将であるかのような振舞いでしたならば、きっとこの客室乗務員のように見えるはずだ。サーバは「お上(かみ)」のようなイメージで捉えられがちだが、実はサービスするもの、仕えるものから来ている。サービスを提供してやっていると思ったら、サイトの目的は主客転倒する。そもそも「来て頂く」という感覚の大切さを思い出す。 出発して食事も終わると映画が始まる。その時には窓を閉める、閉めさせるのが客室乗務員らの仕事だ。そのときの態度も勉強になる。客が寝ていようが何をしていようが、ポンポンと肩を叩き、無言で窓を指さし、指をゆっくりと下げる。一言も言わないこともある。もちろん機内はかなりうるさい、だから話しても聞こえない可能性は高い。しかし、客を客と思っていないのは明らかだ。どこのレストランで、客に窓を閉めさせるときにあんな態度をとるだろう。お茶を配るときも、客がコップを差し出しても、受け取りもしないで空中で注いだりする。間に別の客がいる場合など、どう考えても何滴かはしたたり落ちる。でも客室乗務員らは窓を閉め(させ)、お茶を配るというタスクをこなしていると思っている。私は何か勘違いしているように感じる。そんな彼らを見ながら、自分のサイトでこんな風に来てくださる方を扱っていないかと考え込む。 食事の予告は、ここ十年間、一枚の紙が渡されるだけだ。そこには、一見配られる時系列順にメニューが並んでいる。しかしよく見ると、「or」で結ばれたメニューが混じっている。何度見ても左右に並列に並べて書いた方が分かり易い。それでも、印刷の手間かデザイン代をケチっているのか直列に並んだものしか見たことがない。その紙切れを見ながら、もちろん頭はWebサイトのメニューレイアウトやラベリングを想っている。客がそのメニューを前に頭を抱えている姿、あるいは色々廻った挙句に「先に言ってくれよ」と文句を言いたくなるような難解なメニューを考える。 そして食事。よくもこうした素材をここまで不味く調理できるものだと感心する。別に私の舌は肥えている方ではないが、美味いと感じたことは殆どない。これはサイトに掲載する商品の写真を思い起こさせる。例えばパソコン周辺機器系のものだと、全体のデザインやどういったモノと接続できるか等の情報は最早必須である。しかし、なんとなく格好よく見える角度からの写真しかなかったり、画像がチープで本来の質感を感じさせない写真。魅力を伝えない情報で構成されている場合を思い出す。但し、機内食はにはメリットもあって、機内食を全部しっかり食べると、渡航先到着後に大抵お腹の調子が悪くなる。美味い不味いの問題ではなく、座り続けるなかで通常と同じように食べること自体が、私には合わないようだ。これももう少し考えるとユーザの使っているネットの太さ細さにこじつけて教訓に感じることもできるかもしれない。 客室乗務員に戻って、もう一つ見るべき点がある。日本発の国際線の場合、大抵は日本語を話せる方が一人はいる。体格は体積比で1/2から2/3、機動力約二倍、気の付きよう約三倍、が平均値。言葉は通じるし、客を客とみなして接する点が、当たり前なのに嬉しく感じさせる。でも、感化され様に個人差がある。その日本人客室乗務員の影響が、機内全客室乗務員に及んでいるケースには出会ったことはない。大抵はその日本人が影響を受ける側だ。悪貨は良貨を駆逐する。微妙に日本人らしい心配りが変質している。それが鼻に付くところまで行っているか、そうでもない範囲か、見ていて興味深い。勿論これでもサイト作りを思い起こす。何となく楽だから、何となく今風だから、でサイトを作って行く姿。無意味なデコレーション、流行という思考されていない構成。訪れる人にどの様に映るのか。エンドユーザの視点を忘れまい、と思わされる。 映画。貧乏性な私はいつまでたっても楽しみにしてしまう。しかし今回は少し参った。まぁ往路はともかく、復路はひどかった。復路は五回の映画が上映されたが、三種類だった。二本は各二回上映。それぞれ最初の上映のときはまだ出発して間もたっていないので皆が見ようとする。基本的に機内は皆が見れるようには作られていない。何人かが背伸びするように見入れば、後ろの何人かは確実に見ることができない。私は後ろの方で一生懸命首を左右に振って画面を追う。疲れたなんてもんじゃない。で数時間後、皆が寝静まった頃、同じ映画が上映される。先に言えよ。ジャンボとはいえ乗客約400人。その400人に今日のフライト情報のコピーくらい作りなさい。コンビニでコピー作っても4000円の出費で情報を手元に渡せる。eショッピングほど悪い体験をさせているものはない、という方もいるが旅行も負けず劣らずである。時間を使い、最終的には一ヶ所に絞り込んだところでサービスを受ける。利用される状況は似ている。もしかしたら、そこでその購入するのも、その旅行をするのも、一生涯で一回きりかもしれない点も同じだ。サービス提供側の努力を改めて考えさせられる。本当に気分のいいショッピングならまた来る、本当に楽しい旅行ならもう一回行く。 そして目的地に到着。ゾロゾロと通路を歩いていくと、「弊社をお選びいただきまして誠にありがとうございました…云々」という切って貼ったような丁寧なアナウンスの中、笑顔で全客室乗務員が友人を送り出すようにたたずむ。う~ん、そんなサービスだったか? サービス提供側が心の底から精一杯尽くし切りました、という顔をされても、何だかとっても白ける。あ、あの指で指図した奴だ。あ、あのお茶を膝の上にこぼして気付きもしないで進んでいった奴だ。私の記憶によるとそんな感じだ。友人になった記憶はない。さて、そんな「体験」をさせていないだろうか、自分の関わったサイトでは。 多分活用しきれもしない情報入力を求め、それを入力しないと次画面に進めなくし、何画面も飽きるようなキータイプをさせて、微々たる価値を提供していないか。本当にユーザは喜んで次回もここを訪れてくれるようにしているか。画面という半分ヴァーチャルな世界ではピンと来ない状況を、○社機内では存分に擬人化して味わえる。貴重な場だ。腰は痛くなるし、気分は悪くなる。でも、こういう自分の感じ方も含めた定点観測も必要かもしれない。でも、いつか○社のサービスがガラッと変わった瞬間に立ち会いたいっていう想いもある。そんな日は来るだろうか。使い易いWebサイトが巷に溢れるのと、どちらが先だろうか。 以上。/mitsui ps.機外編: US出発時には、チェックイン時のボディチェックでは靴まで脱がされる。ベルトのバックルが引っかかったらしく、物々しいチェックをされる。出発予定時刻まであと10分。バックルが引っかかったおかげで、手荷物に入れていた3台のPCの起動確認が忘れられた。もとよりハサミも含めてNGなモノは入れていない。私には時間が省けてラッキーだが、本末転倒だぞ。 チェックが済んだら、3人の関門が待っていた。ボーディングパスを見せろとそれぞれが言う。急いでいると伝えても、とにかく見せろという。見せると、急げという。それを三回繰り返した。そのチェック係は、自分の同僚がすぐ横で何をやっているのか見ていない。自分に与えられた使命=目の前を横切る者全てのボーディングパスを目視せよ=だけを懸命にこなしている。もはや滑稽を超えて迷惑だ。4人目が居たら問題を起こしそうなくらい腹を立てながら、サイトを思う。横の部署が開発しているセクションに無関心なサイト構造、ありがちだ。隣はなにをするひとぞ。類似情報を何度も入力させられるユーザは、これほど腹を立てているのだろう。

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ライフライン 遥か昔に読んで今尚心から離れない文書や絵がある。マンガばかり読んでいた高校生の頃に出会った坂口尚は今でも特別な存在だ。彼の作品はマンガというよりも、詩に近い。若くしてこの世を去ったが、今でも彼の新作を無性に読みたくなる。 代表作と言っても良いだろう作品に「12色物語」という短編集がある。12色をモチーフにした12編の詩のような作品集。中でも一番「彼らしい」作品が「朝凪」かもしれない。晩年彼はこの「彼らしい」というイメージと格闘していたような気もするので、本人にとっての代表作かどうかは分からない。でも何かを見つめる「眼差し」の彼の根底がここに描かれている。 余命少ない物乞いの老人が老犬と共に小さな観光町に辿りつく。人々は老人の姿に死を感じとり、不快とし、それを態度に現す。老人はどこにいても疎まれる。主人公の少年は悪ガキ達と老人をからかいもするが、次第にその「生」に興味を持つ。ある日、少年は老人と言葉を交わす。「お爺さん…さみしくないの…」と、問う少年に老人は静かに応える。 「うむ…ぜんぜんとはいわんがね…. でも…だれもが、みんなさみしいんだ… そのことを知っているし… だから、そのことに安心しているわけじゃない….みんな必死なんだ 必死になっているのはとても好きだよ… 必死になれないのは、さみしさを知らない人間なんだ ほんとうの孤独を知らない、孤独を見すえられないんだと思うよ… わしは….みんなが小さな暗がりをかかえて死に向かって歩んでいくのを想うとそら恐ろしさやむなしさより なんだか知れない巨(おお)きな力を感じる… 不思議な…そう…その不思議な力はどこかずっと遠いところから発していて人の中に入ると、その人自身の力をゆするように、そして今度は自分の中でからだのすみずみの力を出しきって何かを全力でやろうという力にふくらんでいく。 一生の時間に何ができるか….いや!どれだけできるか考えるんだ。 そんなふうに考えたら、もうジッとしていられなくなるよ… 毎日毎日ぼんやりしていられなくなる…」 坂口尚/12色物語/朝凪 独り言のような、会話のような、ぼそぼそと話す間合いさえ感じさせつつ、この台詞は描かれている。「必死さ」と「さびしさ」。対比したことさえなかった言葉はそれ以降私の心の中で対になって結び付けられた。 それから頑張っている人たちに出会うと、華やかな部分よりも、その孤独の克服の仕方、その孤高の道を感じるようになった。華やかな舞台の裏にある地道な生き方、そんなものが「支え」になっているのを感じる。甲子園でも、マウンドに立つ雄姿より、そこに至る苦労話の方が好きだ。…

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理解し合えぬ人たち Webの世界に入った時から、理解し合えぬ人たちとの出会いが増えた。1つのサイトを作り上げようという共通のゴールを持ちながら、気が付くと何故か互いの足を引っ張り合うことを重ねる。良きサイトのためのアイデア出しを目的とする話し合いでも、自分で何ら新しいアイデアを持参せず、相手のアイデアを批評し批判するだけの方々にお目にかかれる。 当初、そうした人たちのそうした価値観を正すのが自分の仕事だと思い込んだ時期があった。自分が何が何でも正しいという自惚れもあったかもしれないが、関わった人の中にある「変な」感覚を正常するというお節介な作業も仕事の一部だと思い込んでいた。 最近は違ってきた。結論から言うと、分かり合えぬ人たちはいるのだし、いても良い。自分が伝えるべき事柄を精一杯伝えたならば、それで良い。後のことは自分の責任ではない。そんな風に思えてきた。 そんな変化は、端的に言ってしまえば、そんなのに付き合っているとキリがないし、やるべき事が他にあるからだ。他人との意見交換は、それが合意であろうと反発であろうと、時間のかけようは無限大である。互いが話す気力があるならば、いつまででも話し続けられる。建設的な反論であるならば、聞く耳は持つ。いや、面白くて喰らい付くと言った方が正しい。同じゴールを見据えた、異なる意見との出会いには心がときめく。けれど、ゴールを見失った反論にはもはや付き合いたくない。 人の意見に文句をつけることは簡単だ。多分一番低レベルの会話の1つだろう、文句をつけることだけならば。でもそれをすることが如何にも偉そうな雰囲気をかもし出す場合がある。反論できるほど俺は賢いんだ、反論されるほどこの案はチープなんだ。そこにはアイデアや新しい発想に対する敬意がない。自己能力を誇示したいという欲求だけがある気がする。勿論その議論の目的への理解もない。ただ文句を言うだけの時間。その議論の時間が終了したとき、何を手元に残せばよいかを考えていない。そんな輩を相手にした話し合いの時間は長く空しい。 反論されること、ケチを付けられることは気持ちのよいことではない。それもあって補足説明を試みたくなる。それは誤解です、これはこういう意味です。それで真意を汲み取ってくれる人もいる。でも最初からケチをつけることを目的に参加している人には届かない。何を言ってもつけ入る隙を与えるだけだ。そう思えたとき、説明責任をある程度果たした後は、もう良いと思うことにした。ケチ付け人を見ていても、次の餌食を探しに離れていく傾向があるようだ。逆に言えば、執念深くケチをつける人は建設的にそのアイデアを見つめてくれている可能性が高い。 アイデアを実装していく現場では、アイデアメーカとアイデアキラーの両方が必要だ。浮き足立ったアイデアをそのまま現場に投げ込んだ場合、必ずしも良いものが生れるとは限らない。キチンと精査される必要がある。それを担うのがアイデアキラー達だ。メーカにとって、評価を受けることがドキドキする、緊張する、しかし楽しみでもある。キラーにとってどんなアイデアを精査させてもらえるのかワクワクする。そんな両者の関係がアイデアを強固なものにしていく。 Webサイト構築という絡み合うアイデアを出し合う場で、この建設的雰囲気を構築していくことは難しい。同じく世界に一つしかない優れたサイトを作ろうとするのに、違うところを見つめてしまう。 さて、Ridualである。実はこのプロジェクトは約三年ものだ。当初、XMLとWebというキーワードだけを与えられてスタートした。順風満帆の旅ではなかった。何を言っても分かってもらえない状態といった方が正しい。技術論を戦わせても、概念論で戦っても話にならない。かみ合わない。全然本質的でない部分で揚げ足を取られる。悔しくてたまらない。勿論、そういっても実装できるところまでやらせてもらえているのは、ここに何かしらの可能性を感じてくれて後押ししてくれる方々がいればこそだ。そして恐らく、私が無理解の中で苦しんだ以上に、そのパトロンはもっと逆境に立ってくれている。 今更静的ページを中心としたツールに何の価値があるのか、このユーザインターフェース(UI)では使う気にならない。有償で評価を依頼した人たちからも、改善要求ではなく根本否定の意見が届く。辛かった。アイデアを育てようとしない。最初から世界中から絶賛される品質で持ってこなければ評価してやらない、そんな態度、いや「壁」だった。良い点を探そうと努力もしない。一緒に育む気など毛頭ない。 でも、今手元にある最新版(Build#40)で最終テストを行っていて、誇らしい。当時の否定派に見せれば同じようにケチョンケチョンになじられるだろうが、多分意に介すことはない。多分動じないだろう。見ず知らずのサイトのURLを打ち込むだけで、綺麗なサイトツリーが生成される。解析速度も、従来1800ページのサイトに3時間かかっていたのが30分で完了するところまで来た(PenIII/1.4GHz)。懸念していた動的サイトの解析についても、動的に生成される多量な画面をツリーとして表示することの意味を感じなくなってきた。動的に生成される多くのケースでは、開発されるのはテンプレートとして使いまわされる極々少数のページと、後はDB廻りの部分である。ならば、そのテンプレートだけを拾えれば良いと思えている。記事サイトの一万記事分の一万ページをツリー状に視覚化されても嬉しくはないだろう。分かっていたと思っていたWebの世界を、私自身再整理して理解し直している。 まだまだ全ての点で整合性の取れた形にはなっていない。まだまだ我々が想定していないケースが存在する。でも世に出せる品質になったと思える。テストを進めるたびに、Webの応用範囲の広さを学んでいる。Ridualに解析させた結果を見つめ、おかしい点に気付く、そのページのソースを見つめ何故Ridualがそう考えたのか考える。別にRidualはAIではない、判定ロジックはシンプルだ。でも、もはや開発陣の中でRidualは擬人化している。人格を持っているかのように、チームの中でその解析結果は話される。「彼はこう考えた、正しいと思うか?」。 へこたれないで良かったと思っている。変に否定論と付き合わず、孤軍奮闘の道を歩んでよかったと思っている。生成されたツリー図も見ながら、TableをGUIで書けた時のPageMill開発陣の喜びを、DBとの連携をGUIで設定できたときのGoLive開発陣の嬉しさを、DB連携のライブチェックを可能にしたときのDreamweaver開発陣の誇らしさを、垣間見たような気がした。「凄いもん作っちまった」、笑われるのを覚悟で書くとこれが本音だ。本当に「凄い」かどうかは市場が判断するのだが。 最近元気の良い朝日新聞土曜日朝刊付録「be」に、陳大済(チン・デジェ)氏の言葉が載っていた。前サムスン電子社長にして、現韓国情報通信相。「頑張った対価は5年のうちには戻ってきた」。五年と読んだとき、長いと感じた。五年後を見据えて活動することは難しいと感じた。しかし、ドッグイヤー(一年=七年)説に立つならば、従来35年待たないと結果が見れないモノが、五年で結果を知ることができるのだ。これは早い。生涯に幾つかチャレンジしても損はないかもしれない。 自惚れと独りよがりと謙遜さの合間で、何人もの理解し合えぬ人たちとの出会いが、自分たちを鍛錬してくれている。Ridualは開発期間の最終局面に入っている。さて今までの鍛錬を我々は活かしてきたのか。発売まであと約一ヶ月。「答え」が見え始めるまであと約一ヶ月。 以上。/mitsui

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