コラム No. 45

人参

眼の前に何があったら、前に出る気持ちが増幅されるか。どんな人参がぶら下げられたらやる気になるか。何が自分のモティベーションを上げ下げさせるか。

先日ある話を聞きながら、色々と考えてしまった。Web界でもっと頑張ろうとする条件は何だろう。金儲けだろうか、技術的好奇心だろうか、会社や上司の指示だろうか、流行だろうか。不況の中でWeb界の相場も下がってきている。そこで生きる人達の生活は苦しくなっていると言えるだろう。バブリーな話を聞く機会は明らかに減っている。苦しい人たちに何をメッセージすれば、この状況を打破できるような活性化が望めるのだろうか。

そこでは、どれだけ儲かるかが語られた。市場規模、今後の明るい見通し、ユーザ動向。様々な右上がりの折れ線グラフをもとに、この世界に入るといい事ありますよ、と。普通では身近に感じる訳もない数字を、いわゆる紳士が延々と並べる、笑顔で。これがビッグビジネスですよと言わんばかりに。

別に法に触れるような胡散臭い話じゃない。何処から見ても立派なビジネス。ただ、その分野をどう考えるかには個人差が強く現れる分野とは言える。

その分野の好き嫌いの前に、何か引っかかるものがある。どこか昔に経験しことのある匂い。才ある者を囲い、労する者よりも、腕組して座す者が儲ける仕組み。クリエイタを持ち上げてヴィジョン(絵だけではない)を描かせて、1枚300円ねというビジネススキーム。もちろん、そんな言葉にしたら、理詰めで反論されるし、その反論に抗するだけの理論武装はできない。それでも直感がそうささやく。

でも、そもそも、「儲かります」というのが、クリエイタへのメッセージになるんだろうか。クリエイティブなアイデアを出す人も、人の子なので霞を食べて暮らしていける訳じゃない。以前書いたように、自分が豊かにならなくては他人を豊かに出来る訳などないと思っているので、豊かになるための経済的支えは必須だ。その意味で儲けは欲しい。でもそれは目的じゃない。

才能溢れる「クリエイタ」がライセンス料のことだけ考えているような「人」になっていくのを何度か見たことがある。それは「悲しい」とか「哀れ」とかではなく、なんだか「無惨」という印象を持つ。本来の翼を自らもぎ取り、それでも以前の自分であると錯覚しているような感じ。見てて辛い。

聖書にこんな言葉がある、「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた、むなしい(伝道者の書5章10節)」。有り余る富を手にしたことはないけれど、なんとなくそうなんだろうなと思える。ノルマは達成しても新しいノルマが与えられる。ノルマを達成したときの満足感は、新しいプレッシャーに変わっていく。その収益の数字を、収益を生む方法自体への愛着よりも上に置いたならば、多分何かが崩れたサイクルに陥る。数字は結果だ。それを求める方法論を考えることまでは否定しないが、数字を追い求めることだけを目的に進んではいけない気がする。なんでもアリの世界になり、満足感からも遠ざかる。

それに比べて、作品を作り上げた達成感、満足感は少し異なる。もちろん、やり残したと自覚するタスクはほぼ毎回残るだろう。満足しきることはない。でも何か違う。全力を尽くしたという想い。何ともいえないあの心地。作り上げたものから学ぶことがある。それが次回の土台に繋がっていく。次回何かもっと上手くやれそうに感じる。更なるチャレンジをしたくなる。何よりも満足感や喜びがある。特にWebの世界は独りよがりを牽制する仕組みが備わっている。他人とつながってこそ価値が出る世界だ。自分の満足感は誰か他人の喜びにどこかでつながっている。これがあるから、この創造の現場から離れられない。

クリエイタを集めたいなら、こうした人参が必要だ。更に、一時の寄せ集めでない限り、こうした条件を出し続ける必要がある。でも、Webの世界でビジネスモデルという言葉がはやりだしたときから、この辺りを考える人が減った。そして、未だに札束で頬を叩くようして、「ほれ、欲しいだろう?」という勧誘をする。その誘惑が強いことを知っているが故に反発を感じる。そうしたワンパターンの勧誘の仕方自体にも、人間をなめているようで怒りも感じる。もうやめようよ、そんな方法は。そんなやり方で才能を釣っても育てられない。

クリエイタ達を誘いたいのならば、そこがどれだけ楽しいかを示せばよい。煽る必要などない。モノ作りの楽しさを知っている人は、それに敏感だ。更に人づてに伝わる速度はWebが加速してくれている。だからどれだけ楽しいかの実現に努力すればよい。クリエイタを欲しいのは、自分達でアイデアを出せないからだ。喉から手が出るほどそうしたアイデアが欲しければ、もっと大切にすればいい。姑息な手段は不要だ、単純明快な方法が一番ストレートに届く。

煽られてその世界に参入して、実体に落胆して去った人たちは二度と来なくなる。それはサイト訪問で皆がウンザリするほど経験済みだ。張子の虎にはうんざりだ。技術にしても、市場にしても、参入したことを後悔させるような体制で、才ある人を迎えるべきではない。

参入してその魅力にとりつかれた人は離れない。そしてその対象をどんどん強くする。初期のブラウザもストリーミング技術もC++もJavaも、飯よりもそれが好きな人の姿が垣間見えた。その人たちへの信頼が、より大きなコミュニティを生んだ。信頼に足る人をどれだけ魅入らせることができ、尊重できるかがスタートポイントかもしれない。

人の働き方は変わって来ている。工場の生産ラインでさえ、一人一工程という流れ作業よりも、一人で一製品を完成させたほうが効率が良いという人たちが出てきている。その差は何か。流れ作業を遅延させる工程をどう組み合わせるかの難しさと、一人で完成させる喜びにあるように感じる。喜びのある労働では、人は工夫する。より高みを目指す。そこが機械とは異なる根本的な点なのだ。

テレビで見たその工場では、その担当者が一番働き易いようにするのはどうすれば良いかを真剣に検討していた。制服姿のおばちゃんが特製の作業ユニットに座り製品を作っていく。それを工場長とかお偉方がメモをしながら見つめている。どこにどの部品を置けば、その人が作業し易いのかを検討しているのだ。もちろん、こうした方法が万人に適応できる訳ではない。その工場でも、そうした一人完成型作業を望む者も数パーセントで、実際にそれが可能な人は更に絞り込まれる。でもその画面を見ていて思ったのは、恐らく製品を完成させるという能力において、そのおばちゃんはその工場長よりも遥かに高い能力を持っていること。そして恐らくはその工場長はそれを自覚していること。更に、その能力を更に発揮させる、発揮してもらうにはどうすれば良いかを真剣に考えていること。そしてそうした考える作業はそのおばちゃんより工場長の方が長けているだろうこと。更にそうした上手く複雑にかみ合った「才」は、その工場でしか意味がない可能性が高いことが面白い。同じ登場人物で、同じ状況でないと、試すことすら出来なかった「場」があるように思う。

そうした「場」を作り上げることを、マネージメントと呼ぶのだろう。才を集めるのも、才を育てるのも、それ次第だ。そのおばちゃんをその工場につなげているのは、金銭的条件が全てではない。自分の能力を引き出してくれる可能性にも魅力を感じているだろう。そんなのも全てひっくるめてマネージメントなのだ。

アプリケーションのユーザインターフェースは、人の心の機微まで察して作られるようになる。単純なテキスト入力ボックスが羅列されているモノをアプリとは呼ばない日が来る。マネージメントも同じだ。金だけ積んでさぁ魅力的でしょ、なんて言っていては鼻で笑われる時代が来て欲しい。あと3~5年で、クリエイタ、デザイナ、エンジニア、マネージャが混在してやる気を維持しつつ協労する時代が来ると思っている。そう出来つつある企業が生き残っていく。そうでない限り日本の産業空洞化は行き着くところまで行っているだろう。マネージメントに残されている時間は少ない。

もう一つ。求められている者達も、座して状況が改善されるのを待っていては駄目だろう。さとくあらねば。陳腐な誘惑には乗らない。見極める目も大切だ。自ら動くことも。待っていても良いマネージメントは湧いては来ない。

以上。/mitsui

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