コラム No. 49

理解し合えぬ人たち

Webの世界に入った時から、理解し合えぬ人たちとの出会いが増えた。1つのサイトを作り上げようという共通のゴールを持ちながら、気が付くと何故か互いの足を引っ張り合うことを重ねる。良きサイトのためのアイデア出しを目的とする話し合いでも、自分で何ら新しいアイデアを持参せず、相手のアイデアを批評し批判するだけの方々にお目にかかれる。

当初、そうした人たちのそうした価値観を正すのが自分の仕事だと思い込んだ時期があった。自分が何が何でも正しいという自惚れもあったかもしれないが、関わった人の中にある「変な」感覚を正常するというお節介な作業も仕事の一部だと思い込んでいた。

最近は違ってきた。結論から言うと、分かり合えぬ人たちはいるのだし、いても良い。自分が伝えるべき事柄を精一杯伝えたならば、それで良い。後のことは自分の責任ではない。そんな風に思えてきた。

そんな変化は、端的に言ってしまえば、そんなのに付き合っているとキリがないし、やるべき事が他にあるからだ。他人との意見交換は、それが合意であろうと反発であろうと、時間のかけようは無限大である。互いが話す気力があるならば、いつまででも話し続けられる。建設的な反論であるならば、聞く耳は持つ。いや、面白くて喰らい付くと言った方が正しい。同じゴールを見据えた、異なる意見との出会いには心がときめく。けれど、ゴールを見失った反論にはもはや付き合いたくない。

人の意見に文句をつけることは簡単だ。多分一番低レベルの会話の1つだろう、文句をつけることだけならば。でもそれをすることが如何にも偉そうな雰囲気をかもし出す場合がある。反論できるほど俺は賢いんだ、反論されるほどこの案はチープなんだ。そこにはアイデアや新しい発想に対する敬意がない。自己能力を誇示したいという欲求だけがある気がする。勿論その議論の目的への理解もない。ただ文句を言うだけの時間。その議論の時間が終了したとき、何を手元に残せばよいかを考えていない。そんな輩を相手にした話し合いの時間は長く空しい。

反論されること、ケチを付けられることは気持ちのよいことではない。それもあって補足説明を試みたくなる。それは誤解です、これはこういう意味です。それで真意を汲み取ってくれる人もいる。でも最初からケチをつけることを目的に参加している人には届かない。何を言ってもつけ入る隙を与えるだけだ。そう思えたとき、説明責任をある程度果たした後は、もう良いと思うことにした。ケチ付け人を見ていても、次の餌食を探しに離れていく傾向があるようだ。逆に言えば、執念深くケチをつける人は建設的にそのアイデアを見つめてくれている可能性が高い。

アイデアを実装していく現場では、アイデアメーカとアイデアキラーの両方が必要だ。浮き足立ったアイデアをそのまま現場に投げ込んだ場合、必ずしも良いものが生れるとは限らない。キチンと精査される必要がある。それを担うのがアイデアキラー達だ。メーカにとって、評価を受けることがドキドキする、緊張する、しかし楽しみでもある。キラーにとってどんなアイデアを精査させてもらえるのかワクワクする。そんな両者の関係がアイデアを強固なものにしていく。

Webサイト構築という絡み合うアイデアを出し合う場で、この建設的雰囲気を構築していくことは難しい。同じく世界に一つしかない優れたサイトを作ろうとするのに、違うところを見つめてしまう。

さて、Ridualである。実はこのプロジェクトは約三年ものだ。当初、XMLとWebというキーワードだけを与えられてスタートした。順風満帆の旅ではなかった。何を言っても分かってもらえない状態といった方が正しい。技術論を戦わせても、概念論で戦っても話にならない。かみ合わない。全然本質的でない部分で揚げ足を取られる。悔しくてたまらない。勿論、そういっても実装できるところまでやらせてもらえているのは、ここに何かしらの可能性を感じてくれて後押ししてくれる方々がいればこそだ。そして恐らく、私が無理解の中で苦しんだ以上に、そのパトロンはもっと逆境に立ってくれている。

今更静的ページを中心としたツールに何の価値があるのか、このユーザインターフェース(UI)では使う気にならない。有償で評価を依頼した人たちからも、改善要求ではなく根本否定の意見が届く。辛かった。アイデアを育てようとしない。最初から世界中から絶賛される品質で持ってこなければ評価してやらない、そんな態度、いや「壁」だった。良い点を探そうと努力もしない。一緒に育む気など毛頭ない。

でも、今手元にある最新版(Build#40)で最終テストを行っていて、誇らしい。当時の否定派に見せれば同じようにケチョンケチョンになじられるだろうが、多分意に介すことはない。多分動じないだろう。見ず知らずのサイトのURLを打ち込むだけで、綺麗なサイトツリーが生成される。解析速度も、従来1800ページのサイトに3時間かかっていたのが30分で完了するところまで来た(PenIII/1.4GHz)。懸念していた動的サイトの解析についても、動的に生成される多量な画面をツリーとして表示することの意味を感じなくなってきた。動的に生成される多くのケースでは、開発されるのはテンプレートとして使いまわされる極々少数のページと、後はDB廻りの部分である。ならば、そのテンプレートだけを拾えれば良いと思えている。記事サイトの一万記事分の一万ページをツリー状に視覚化されても嬉しくはないだろう。分かっていたと思っていたWebの世界を、私自身再整理して理解し直している。

まだまだ全ての点で整合性の取れた形にはなっていない。まだまだ我々が想定していないケースが存在する。でも世に出せる品質になったと思える。テストを進めるたびに、Webの応用範囲の広さを学んでいる。Ridualに解析させた結果を見つめ、おかしい点に気付く、そのページのソースを見つめ何故Ridualがそう考えたのか考える。別にRidualはAIではない、判定ロジックはシンプルだ。でも、もはや開発陣の中でRidualは擬人化している。人格を持っているかのように、チームの中でその解析結果は話される。「彼はこう考えた、正しいと思うか?」。

へこたれないで良かったと思っている。変に否定論と付き合わず、孤軍奮闘の道を歩んでよかったと思っている。生成されたツリー図も見ながら、TableをGUIで書けた時のPageMill開発陣の喜びを、DBとの連携をGUIで設定できたときのGoLive開発陣の嬉しさを、DB連携のライブチェックを可能にしたときのDreamweaver開発陣の誇らしさを、垣間見たような気がした。「凄いもん作っちまった」、笑われるのを覚悟で書くとこれが本音だ。本当に「凄い」かどうかは市場が判断するのだが。

最近元気の良い朝日新聞土曜日朝刊付録「be」に、陳大済(チン・デジェ)氏の言葉が載っていた。前サムスン電子社長にして、現韓国情報通信相。「頑張った対価は5年のうちには戻ってきた」。五年と読んだとき、長いと感じた。五年後を見据えて活動することは難しいと感じた。しかし、ドッグイヤー(一年=七年)説に立つならば、従来35年待たないと結果が見れないモノが、五年で結果を知ることができるのだ。これは早い。生涯に幾つかチャレンジしても損はないかもしれない。

自惚れと独りよがりと謙遜さの合間で、何人もの理解し合えぬ人たちとの出会いが、自分たちを鍛錬してくれている。Ridualは開発期間の最終局面に入っている。さて今までの鍛錬を我々は活かしてきたのか。発売まであと約一ヶ月。「答え」が見え始めるまであと約一ヶ月。

以上。/mitsui

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