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休息 仕事のやり方を見ていて、2つのタイプがあることに気がつく。1つは休息をとるのが上手な人と、それが下手な人。 昔米国でゴールドラッシュが起こったとき、多くが我先に西部へ向かおうとした。なんでも現地集合した順に良い場所をあげるという話だったようだ。鉄道の駅に近い所が「良い場所」を意味していたようだが、とにかくパイオニア精神溢れる家族が大移動を開始した。アメリカ大陸の横断である。簡単に行ける距離ではない。パイオニアの大部分は、かなりの距離を毎日進み続けた。しかし、ある牧師家族は日曜日ごとに「安息日」を守り、週6日しか移動しなかった。その結果、毎日進み続けた家族は、家族本人も牛馬も疲れ果て進度が鈍り、一番良い場所を手に入れたのは、その牧師であった。 どこまで本当かという点は置いておいて、時々思い出す話だ。毎日毎日まるで追われるかのように仕事に就く状態の中、このまま走り続けた先には何が待っているのだろうと疑問に思うことがある。若い頃であれば体力を信じて突き進むことも可能だった。しかし、どこまで自分が持ちこたえられるかの自信が徐々になくなって来ている。昔なら30分でやれた作業が、取り掛かるのに時間がかかり、出来上がったモノも良く見るとタイプミスがあったりする。 Web界の大御所の一日が分かるような記事が幾つかの紙面に載る。読んでいて、ため息が出る。朝早くから釣りに行ってから仕事にかかる方。朝日の中、釣竿片手に川の中にたたずむ写真が、目に痛い。そうした充電がああした作品の下地として横たわっているのか。ある人はパソコンを置いて南の島に数日間。筆と紙でスケッチをし、モノの感触を確かめるような数日間を過ごしたようだ。モニター、そもそも電気がなければ何も出来ない生活を続ける者には、日の昇りとともに生活が始まり、日の暮れと共に活動が収束していく生活は、羨ましいだけでなく、最早忘れてしまった「ほんものの生活」のように感じる。 SOHO系で頑張っている人は、常に頑張らなくてはいけない症候群にかかっていると聞く。誰も他にいないのである、まるで遊ぶことや休憩することが罪であるかのような感覚に追われ続ける生活。会社という枠の中では自分らしく働けないという理由などで独立したのに。でも、サラリーマンだってそうそうお気楽な家業ではなくなって来ている。何をやるにも査定やら、石橋も叩き壊すほどの確認がなされる。常に頑張っていないといけない緊張感はある(まぁ、ない人もたまにいるけれど)。 疲れが溜まるとろくなことがおきない。風呂で寝込んでしまって溺れかかったり、深夜キッチンで寝込んでしまってコックリした弾みで頭を強打したり。そうした肉体系の話もあるけれど、今までだとここでアイデアが出たのに出ない、という引退を考えるような状況に陥ることが一番辛い。何かアイデアの尻尾みたいなのが見えるのに掴めない。もう少しで覆っている幕を剥ぎ取ることが出来るのに、手が出せないで正体が見えない。喉まで出掛かっているのに、人に説明が出来ない「もどかしさ」。 劇場の俳優達は健康管理が仕事のようなもののようだ。1ヶ月やそれ以上の期間、同じ役を異なる客の前で演じる。勿論気分気力体力の上下動はあるだろうが、下限が平均値よりも高くないと、来てくださるお客さんに失礼だ。だからその間の健康管理には並々ならぬ注意を払う。先日何かで読んだのでは、感覚が鈍くなるから風邪薬ものまないという。華やかな表舞台からは見えない、苦労に裏打ちされた何かがある。 Webサイトを作る上で、似たような感覚を持つことがある。1つのサイトを構築できても、それだけでは良くない。作り続けることが肝心だと思える。初日だけ見事な演技ができても駄目なように、演じ続けることにも価値がある。勿論一瞬の演技、その時にしか目にすることが出来ない演技もあるだろうが、でも一瞬芸ではWeb屋ではない。家業にするなら続けなきゃ。 じゃあ、どうすれば良いサイトを作り続けることが出来るのか、走り続けることができるのか。最初に戻るのだが、早朝の釣りや南の島なんだろうと思う。余りに今までの自分のライフスタイルと違う世界を夢見ても良くないだろうが、自分なりの充電の仕方を見つけることが大切なのだ。映画を見たり、温泉に行ったり、ヤケ食いが充電になる人だっているだろう。そんな自分の避難所、充電(ガソリン)スタンドのような場所をキチンと持っていることが飛躍できるかどうかの分かれ目で、次に必要なのは倒れる前にそこに一旦逃げ込む勇気か。 参加は出来なかったけれど、たしかFlashの開発者向けのカンファレンスで、映画を見るという話を聞いたことがある。Flashの優れた作品を見、技術を語り、Matrixのような映画を見る。予めアジェンダを伝えておけば、その共通の人たちが集まる。そしてそれが成立するだけの共通項があったのだと思うけれど、こういう余裕のあるプログラムっていいなぁと感心したことを憶えている。映画を見ながら、リフレッシュもし、そこからヒントも頂いてしまおうとい企画。ギチギチのカリキュラムより、得るものは多いのかもしれない。 自分の「引き出し」という言葉もよく耳にする。行き詰まったときに、どれほどのアイデアが出せるかのアイデアの集積所のこと。休息をとるとき、実は何かがこの引き出しの中に自然と入ってくるのだろう。だから休息後に、本当にリフレッシュして再度頑張り始めることが出来る。 そこまで分かっているのであれば、準備すべきだろう。サイトを作っていてここで現場は泣くだろうと感じたら手を打つように、自分の生活もここで詰まるだろうと「読み」を効かせて、詰まらないように手を打つ。長く頑張る人は、キチンと休める人である。そしてこれは、キチンと休ませない上司は、完走を目的としていないんだという意味でもある。 若い人を見ていると、自分の遊ばせ方を心得ている人が多い。先日も、一週間休みますと言って、隣のチームの新人がニュージーランドに飛び去った。フットワークの軽さも行動力も羨ましい。人間はロボットではないので、加速する技術に常に行動を共にすることは出来ない。休み方を知る。これも加速時代の知恵かもしれない。 以上。/mitsui

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学生 先日ひょんなことから、某マルチメディアスクールの卒展みたいなものに呼ばれた。ただ座って、学生の発表を聞いていれば良いのだと、気楽な気持ちで招待を受けたのだが、当日受付で講評をしてくれと頼まれた。 Webサイトを見回りながら、色々と辛口の独り言はぶつぶつと言っているのだが、公の場で、しかも作った本人に対して、たった今見せられたサイトに対するコメントを述べろ、というのは、さすがに厳しいことだった。 学校で選んだ作品10数点。それを作者が自分の口で約5分間説明する。グループで作ったものもあれば、個人で作ったものもある。気がついたことは、発表する学生自身がとっても仲がよさそうに見えたこと。ステージの下にまとまって座っていたが、発表のために立ち上がるときも、それを見送るときも、終了して戻ってくるときも、なんだか仲が良い。悪く言えば、緊張感が余りない。よく言えば、羨ましいほどの連帯感。 Web系が半分、3D系が半分といった構成。講評すべき相手は予め指定されていた。だからその人の発表まで、落ち着かない。どんなモノを見せられるのか、良くても悪くても、と考えてドキドキしていた。自分の相手に番になり、プレゼンが済む。Flashのサイトだった。出来も水準を越えている。 でも敢えて辛口のコメントを幾つかした。これからWebの業界で生きていくのに必要なモノに少しでも触れるようにした。なんだかすっかり老婆心である。どんな才能ある人でも、頑ななSIベンダーやクライアントを相手にするならば、アーティスティックな才能だけでは超えられない壁がある。それを乗り越えるしたたかさは、学生のうちから見ておいても良いのではないか。 いつもは、クライアントの(たいていは漠としている)要望に対して、こんなのはどうでしょうかという実装のプランを作るのが仕事だ。そのアイデアが先にあって、そのテイストを実現できるデザイナを捜し、絵を探す。囲って居るデザイナがいる訳では無いので、デザイナに合わせた提案を考える訳ではない。こちらで考えたアイデアを具現化するにはどのイメージが最適かという順序で頭が回る。 だから講評の場では、いつもと違った順序で作品を見ることになる。イメージを見せられて、これを何処かに提案するとしたらどこだろう。どのクライアントさんだろうか、どういった仕組みを持ったサイトだろうか。そうした意味で頭の体操のようで、自分がどう考えるのかも楽しめた。確かに日常ブラウズしている時と余り変わらないのだが、講評をしなければならないというアウトプットが必須になると態度が変わるものだ。 総じて言うと、さすがに学校が一旦フルイにかけた作品だけあって、そのまま世間に出してもおかしくない。いや世間一般のサイトよりキチンとまとまっている。情報整理のしかたから表現の仕方まで、いわゆるセオリー通りのきっちりした開発フローが見える。もう少し学生らしい冒険をしたら良いのに、等とすっかりオジさん口調の感想も持つ。けれども、少し違った感慨に襲われた。 私がWebの世界に飛び込んだとき、まだまだ黎明期と呼べる時代で、勿論大学を出たての頃には、Webデザイナなどと言う職種は無かった。最初の職を辞したときも、マルチメディアスクールは存在したが、まともな授業は余り期待できるものではなかった。正直に書くと、そうした学校のサイト自体が重く、構成も画像処理も素人の域に近かったことだけが記憶にはっきりと残っている。 それが今や自分たちのやっていることを、追いつけ追い越せという世代がそれなりの品質の作品を掲げて育ってきている。産業と呼べるのかどうかは分からないが、その開拓期に自分たちが多少でも関わってきたモノが一本の道として伸びて行っているのを、改めて感じた。Web雑誌も出ていることだし、関連セミナーも頻繁に行われているので、当たり前といえば当たり前の事柄だ。けれど、実際に活気あふれる新人達の姿を間近に見ると、なにか違った感覚を持ってしまう。どこか、自分達の世代の中だけでこの仕事をやりくりしている様な感覚というか危惧を持っていたのかもしれない。 あぁコイツ等が後を継いで行くんだ、と引退ジイさんの気分に浸る。でもそういうのって満更嫌いではない。自分の仕事が終わり、誰かがそれを違った形で継いで行くってのは、気分がいい。自分の仕事を棺桶までもっていける訳でもなし、継がれて花開く方が心地よい。継ぐ者が進みやすいように、道を整備してあげたいとさえ思う。 発表会の後に懇親会がもたれた。悩んだけれどそこにも顔を出す。自分が講評した人にもう少し言葉を足してコメントしたかった。後で聞いたら、無愛想に辛口なコメントを吐く私は、ヤク○ッぽく見えて怖かったそうである。それでも、自分の製作意図を述べ、私のコメントに真摯に耳を傾ける。なんか素直だな、と感心する。そんなコメントをしていたら、別のグループの方もコメントを求めてやってきた。自作に対する反応を知りたいという気持ち、思い出すし、よく分かる。少し大きめのサイトを立ち上げたとき、「ねぇねぇ、どう? 見てくれた?」と道行く誰にでも聞きたかった。 平均点以上だと思うと告げた上で、ここでもやっぱり手放しで褒めることはできなかった。自分だったら自分が修正できることを聞きたい、と思うからなんだろう。ここはこうした方が良いのではないか。ここは多分こう見せたいのだろうけれど私にはこう見えた。ここはこうした仮説があるのだろうけれど、私にはそれが妥当には見えない。結構自分でも辛口だと思いつつも話す。さっきの壇上の講評ではなく今回は相手の顔色を見つつ話せるのが救いだ。自作に対するコメントを聞き漏らすまいという目の輝きが消えない。なんだか自分でも鍛えたくなってくる。いいデザイナに育つかもしれない。 帰り道、自分達が経てきたつまらない苦労はして欲しくないな、と改めて想う。別に甘やかしたい訳ではない。別に薔薇色の開発環境を用意できるとも高ぶってもいない。でも私達の苦労話は昔話にしたい。次世代には次世代なりの苦労があるだろう。 とりあえず、サイトを何らかの形で一望できる情報の塊を生成しておきたい。サイト開発時の情報管理に新しい光を灯しておきたい。Ridualの今夏(2003)製品版リリースを目指して、現在格闘中。講評した学生さんから辛口のコメントが届くやもしれぬ。それもまた楽し。 以上。/mitsui ps. オフィス井手(講評相手、これも縁だし:-)

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Version 1.0 サイト開発は、その対象者の見極めから始めてきた。どんなユーザに、どんな情報を、どのように見てもらうか。そこが常にスタートポイントだ。その対象者がピンポイントで、更にかなりムツカしい層だとしたら…。www.Ridual.jpサイトは、まさにそんなサイトだった。 Ridualに興味を抱く人は、基本的にはWebサイト開発に実際に携わっている人に絞られる。XMLやJava、或いは情報の視覚化という観点でも、それなりに味わい深いと思っているが、実用的な点を考えると、対象者の中心点からは少しそれる。では、実際にサイト開発を行っている人の「属性」は限定できるのか。HTMLコードが読める書ける程度のスキルチェックは可能だが、それ以上で必須といえるものを明確に出来ない。誤解を恐れずにいえば、HTMLですら必須ではないかもしれない。情報整理と画面遷移を紙で書いて、あとはコーダーに任せる方法だって、論理上は可能だろう。「Webサイト開発者」と言っても、実はどんな対象者か何も限定していない気さえする。 そんな漠とした対象者の属性に、更に高い敷居が必要だ。Ridualを試すには、Javaのインストールができなくてはならない。それなりに技術に明るい人でないと、結構頭を抱えるだろう。そもそもベースとしているXMLも、言葉としては広まっているが、活用しているレベルの人はまだまだ少ないし、そんな人でサイト開発の現場にいるデザイナ(画面遷移図を描く人)は輪をかけて少ない。 結局メンテナンス性を重視して、普段は余り使わないFrame構成でサイトを構成した。無理して部分的に英語モードも用意して、余り画面を細分化しないで、似たような情報は同じ画面内に集約されていることを目指した。対象者がイマイチ定まっていないにしても、一つだけ分かっている属性があった。ほぼ間違いなくサイトの構成に口うるさい御仁たちだ。そんな方々に、こんなツールがあれば開発が楽ですよ、というサイトを作る。圧倒的に辛い状況だ。私自身も名だたるツールベンダーのサイトで迷うたびにブツブツと文句を言っているのだから。 logを追う限り、迷子になっている形跡はあるけれど、いまのところ文句を面と向かって言われたことはない。感謝である。で、あと約一ヶ月で実は満一歳を迎える。人間で言えばそろそろ歩き出し、自律的活動が始まる時期である。 今、まだ不確定要素があるけれど、製品化に向けて進んでいる。予定通り行けば今夏出荷開始。サイトという母体が出来てから一年、漸くその子が歩き出す。現在は更なる改良開発を進めている真っ最中。一つの製品を世に出す苦労を、少しは味わっている。でも本音は嬉しい、とっても。その後に続くサポート等を考えるとそら恐ろしいのだけれど、やっぱりワクワクしている。血圧も少し上がってしまった:-) メインで取り組んでいる活動は以下三点: 1) Java1.4.1対応(現在は1.3.1) 2) HTMLフォルダを指定可能にする(ローカルディスク上ならどこでもOK) 3) 解析能力の向上 さすがに古いと言われたJava環境をアップする。これすら簡単ではなかった。色々と問題はある。平坦な道はない。フォントで壁に当たる。 次は、サイト開発を実際に行う作業ディレクトリの扱い方が気になっていた。現状では、常に決められた場所になくてはならない。サーバ配下に置くにしても、別エリアで開発するにも、何らかの複製を用意する必要があった。その分、ディスクを消費し、作業の手間の分だけミスが起こる可能性を高めていた。これをRidualディレクトリに依存しない場所で自由に指定したかった。これが達成できれば、各種ツール(Dreamweaver,GoLive,テキストエディタ等)での開発フローをRidual導入によって変更する必要がなくなる。 そして、解析能力。先ずは今まで以上にHTMLの中を解析できるようにしたい。アナライズをかければ、どんなMETAタグが書かれているのか、どんなFORMが記載され、どんなパラメータがあるのかまで調べ上げる。全ての情報は今まで通りXML(site.xml等)に書き出すので、将来的には一画面一ページのドキュメントを自動生成できるはず。そこにはページに書かれている情報の内、レイアウト以外の情報を出来る限り拾おうとしている。これで、エンジニアとデザイナのやり取りに、ヒューマンエラーが入る可能性が少なくなる。FORMのパラメータで動かないと頭を抱えていたのが、単純なタイプミスであったなんて話を救いたい。 そしてFlashMXの解析。せめてgetURLで指定されたURLだけは抽出したいと考えている。これが出来ればFlashサイトの何割かは自動でサイトマップが書ける。現時点では、Flash5までしか解析が出来なくて、Flash(swf)もリソースとして扱っている。ページとして扱うべきかもしれない。 けれど話はそんなに簡単ではない。ページの記述方法が余りに多岐にわたっているからだ。JavaScriptで凝ったページは特に解析が難しい。製品版でも全ての解析動作保証は不可能だ。リリース時に何を解析できるのかを分かり易く示して、問題点も示して、それら制限を承知の上で購入してもらうしかない。…

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規格 ブラウザとかけて、子育てととく、そのココロは「甘やかすと後がたいへん」。 最近つくづくそう思う。Ridual Version1.0(V1)の開発を進めていて、色々なページを解析している。ブラウザで如何に見えようと、Ridualはお構いなく冷淡に解析をする。解析エンジンはJavaに搭載されているHTMLパーサ。このパーサが判断できない記述方法には対応のしようがない。 Ridualで既存サイトを解析すると、ウンザリするほどエラーメッセージが表示されるのが常だ。単純なもので言えば、最初のHTMLタグがないものから、最後の/HTMLタグよりも後ろに様々な情報が記述されている場合、レイアウト上デザイナには常識的な方法であっても、HTML仕様書上は推奨していない記述方法まで、原因は様々だ。 それでも、多くのサイトは、特にIEを用いれば「正しく」表示される。余り他社の落ち度を胸を張って指摘できる立場にはないが、名だたる企業のサイトで、このような「ブラウザによっては見える(ブラウザによっては見えない)」状況が発生している。自戒を込めて書くが、ブラウザ依存の検証は、基本中の基本ではあるが中々浸透していない。 それでもそのサイトを見せたい大方の人に見えれば良いというのであれば、その目的は事実上達成しているのだろう。しかし、それで良いのか、という疑問が頭から離れない。先ずは、なんのためのブラウザだろうという疑問。それから、そのサイトの情報の二次利用を考えた場合の疑問。 最初のブラウザとは何ぞや論は、「大勢に見えれば良いじゃないか」派に余りに逃げ腰なのが現状だ。だが、最初にブラウザに出会ったときの感動を何故そうも簡単に忘れられるのかと聞きたくなる。今まで図書館なりに行かなくては接することが出来なかった情報に、マシンさえあればアクセスできるようにしてくれたのがブラウザである。その恩も忘れて好き勝手に書いて良いじゃないか、というのは少し解せない。HTMLの基本も調べず、ただ「あるブラウザ」で表示できて動いたから、それで良しとする風潮には、どこか危険な香りがする。独りよがりの匂い。ブラウザによって表示できないというクレームが来たときに、「そんなブラウザ使うなよ」とバッサリと切り捨てかねない流れ。自分達は出来得る限り自由に情報にアクセスしたいのに、他者には特定の方法を強いる態度。最初の「ブラウザ」との出会いに限りなく異質な香り。楽だし、正直言って魅惑的だが、理想からかけ離れた境地。 次の再利用に関しての問題は、Ridualでの問題でもある。Ridualは新規サイト開発から既存サイトの解析までを縄張りにしている。それは螺旋階段的に開発を進める上で必須だった訳だが、これには前述のようにHTMLを何らかの方法で解析することが必要になる。ここで問題が出る。正しいHTMLに出会わない。勿論、この「正しい」というのも、ここでは実際はJava搭載のHTMLパーサの仕様に合っているかどうかという意味でしかない。しかし、HTMLの解析モジュールを自前で開発することはコスト的に許されない。だからRidualは、フリーで提供されているモノを使った。ここで、HTMLの解析のレベル(?)が、ブラウザとパーサーとでまさに雲泥の差ほどの開きがある。 パーサは駄目なものは駄目だとはっきりと言う。ブラウザのように善意で解釈してくれない。書き込まれたHTMLを見て、たぶん作者はこんなことを記述したかったんだろうと判断はつきそうなものでも、ルール違反ですとお役所みたいに突っ返す。今までワガママが自由にきいていた環境から、お目付け役にガードされた「不自由な」環境に追いやられたような気さえする。しかし、ワガママ放題の子は一朝一夕では直らない。まさに子育てと同じ。 一生涯、我が道を行き、他の人と協業しないのであればそれでも良い。サイトのライフサイクルの間、特定のブラウザにしか見られない、他のブラウザのユーザからのビジネスチャンスを捨ててしまうという覚悟があるならそれでも良い。一度作成した情報の塊を他のツールで再利用する気など持たないのならそれでも良い。毎回毎回同じような情報を、同じようなコストをかけて作り直して行けるならそのままでも良い。しかし、人もページもそんな風には生きていけない。 人であればどこかで集団に属する。自分の価値観だけで通用しない世界に接する場面がいつか来る。サイトであれば、リニューアルの時期は必ず来る。リニューアルの来ないサイトは既に死んでいる。キャンペーンや生産終了した製品の情報などを除いて、ある程度の情報は再利用したい。たとえそれがサイトのボリューム感をつけるためだけであっても、ゼロから作り直すのは手間と時間がかかる。勿論コピー&ペーストも可能だが、プログラムが書けるならもっと効率の良い方法があるはずだ。その時に、それまでどの様に作られてきたかが問われる。どのような人の手を通して来たかが問われる。どのようなポリシーで守られてきたかが問われる。 規格や標準を軽視してきた作られたサイトは、外見は良くても中身はボロボロで廃人のようだ。ソースを眺めて、同情さえしてしまう。逆にそれらに配慮しているサイトのソースは見てきて気持ち良い。私のコーディング技術はたいしたことはないが、それでも美しいコードは直感的に分かるものだ。そういうサイトは、開発も、すんなりと進めたかは分からないが、活気ある状態でゴールを迎えたことを予想させる。ノッてたんだろうな、と想える。 思えば数年前、ブラウザの覇権を巡って、熾烈な戦いがあった。結果的に切磋琢磨はしたけれど、あのブラウザ戦争はなんだったのだろう。誰が何の得したのだろう。表現力を手にすることと引き換えに、もっと大切なモノを失った気がする。 世界中の九割が一つのブラウザをたとえ使ったとしても、残り一割の中に様々な個性的なブラウザがひしめく。「万人」に情報提供を行うことを主目的にした場合、この九割のユーザではなく、一割への対応策が大きな壁となる。当時こういう事態に落ちることを予想して、我々は表現力を求め続けていたのだろうか。Webデザイナは、幾つかのサイト構築の責任を負うだけでなく、ブラウザ社会の動向を左右する力と責任とを持っていたのだと後で知らされている。現在のブラウザ依存の壁を見越して、もっと「規格」を意識できたなら、もっとスタイルシート時代への移行を考慮した規格作りをできたなら、今は恐らく違った世界になっていただろう。 そして今、当時の表現力に関する競争の時代から、タブ付であるかという操作性、ページレンダリングの速度、ブラウザ自体の軽さ、対ウイルス堅牢性等、評価軸はその重心をずらしてきている。結果として万人向けでないページは、更に大きな足枷になっている。 Ridualでも、HTMLチェッカーのように、どこでどんなHTMLエラーが出るかを出力してはどうかと、開発エンジニアと協議したことがある。彼は一言で片付けた。「正確なHTMLのページは存在しないのだから、エラーを出すだけ無駄だ」。殆ど全てのファイルにエラーが表示されるのであれば確かに無駄だ。ごもっとも。返す言葉がない。でもなんだか無性に哀しい。 砂上の楼閣、そんな言葉が頭をよぎる。なんて不安定なものの上に、強大な情報網がのっかっているのだろう。もう少し賢くありたい。 以上。/mitsui

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内幕 映画は監督のものか、プロデューサのモノか。時々気になって考える問題。Ridualを開発していて、同じようなことを考えることがある。 私は社内で予算を集めて、数多の会議を通過させる。仕上がったモノをテストしてどこまで通用するか評価する。勿論クレームもつける。方向性を決め、販売に向けて計画も作るし、セミナーを開いたりマスコミにmailをしたりもする。ダウンロードしてくれた人たちのリストも管理しているし、ログも見る。そして話題つくりとしてコラムも書く。登録商標や特許関係も処理する。エンジニアっぽいことは、XSLを書くことくらいか。監督ではない、プロデューサだろう。 監督役は、開発リーダ。私が指示するのは概要設計まで。その後の実装方式は基本的に任せている。私から出された機能を実装する方法を考えつつ、それを実現してどれほど嬉しいかも検討してくれる。プロデューサが思い描く客層が本当に正しいのかを見る役目も担っている。お客さんが本当に喜んでくれるシーンがどんなものであるのかを私に伝える。協議はするが、実際には開発サイドが乗る気になれない機能はボツになりがち。無理に実装してもらうのは、政治的な問題等の私自身どうしようもないような場合が多い。 製品化直前の今、開発リーダは高松にいる。この最終フェーズが始まってから数ヶ月経つが、まだ一度も顔を合わせていない。一緒に仕事をして約二年経つが、今までも実際に会ったのは二度ほどだ、計数時間程度。電話もしない。mailだけで開発が進んでいる。最小人数の体制なので、混乱が少ないという現実があるが、この遠距離開発は比較的上手く行っていると思う。 恐らくお互いに感じていることだが、自分の書いたmailで情報がキチンと伝わっているのかという不安は常にある。だから、推敲を重ねてmailするし、確認(伝わってます?)mailも書く。そして実装されたモノを試す瞬間はかなりドキドキしている。毎回自分の実装して欲しかった点と、それ以外の機能に出会う初々しい瞬間。私の中の期待と、実装された現実。私が期待してはいなかったけれど、開発中に必要だと判断されて実装された機能。ドキドキしながら、楽しくお仕事している。 この「楽しく」というのが最近気に入っている。別に楽な訳ではない。Ridualで拘束される時間は極めて長い。寝ても覚めても考えているし、息抜きしたくなってもアクセスログやフォーラムの様子が気にかかる。でも、次のビルド(版)ではどう来るか、どうなっているか。そんなワクワク感が私自身にある。正直幸せである。これは絶対に喜んでもらえるぞ、という機能が追加できたとき、一人でニタニタしながらテストしている。余り他人に見せられない姿だろう。 Ridualは、私自身にもよく見えない部分がある。こんな機能があれば便利だと思う、という数点のポイントから出発しているが、それが本当に便利かどうかはやはり分からない。開発手法は千差万別だ。実装されたモノを実際に使い込んで見てからでないと判断が出来ない。でもそのために限られたリソースを実際に消費しながらでないと進めないのが辛い。 何度も開発陣を振り回している。その度に謝る。結構あっさりと謝って機嫌を直してもらう。自分で振り回しているという自覚がある。一週間に二度も三度もその週に行う作業の優先順位を変えたこともある。でも言葉を尽くして説明しているつもりだ。自分でmailで文字にしながら何度も考える。mailに書く前にも、自分の言ったことを整理するために一人会議をよく開く。十人以上入る会議室で、一人でブツブツ言いながらウロウロしながらホワイトボードで整理する。あの時あぁ言ったのは何でだっけ、その後でこう指示したよなぁ、じゃここで矛盾が起きるじゃないか…。情報整理すらできない現実にぶち当たって、あ~俺ってやっぱ才能ないわぁ、と一人で落ち込んだりもする。 お客さんのWebサイトを開発していて、一番辛かったのは、指示される内容に納得できない時だった。色とかキャラクタとかの個人の趣味色が強いところではない、客観的に論理的に考えるべきところで、「本当に考えて指示してる?」と尋ねたくなるときがある。大抵は先方も忙しい。やっつけでアイデア搾り出して、推敲してる間もなく我々に投げ出すのが常である。でも、自分が納得できない設計(デザイン)では力がだせない。でも言えない(顔には出した)。辛かった。 そんな経験が活きている。私のチームのメンバは私に対して殆ど遠慮がない。先日も私の出した案に対して、「もっといい方法があると思う」と返された。この言葉は私がこのコラムでも引用している言葉だ。常に何に対してもこの様に考えることが、開発者として必要だと常々思っている。平たく言えば「奢ることなかれ」+「もっともっと考えろ」。自分のアイデアにこの言葉を返されては、返す言葉がない。う~ん、まだ足りんか、まだ甘いか、と頭を抱えるしかない。そして考え直す。腹は立たない。プロジェクトリーダが心情告白みたいなコラムを書くことは圧倒的に不利だ、とは考えるが、それでもやはり腹は立たない。 でもこうした体制が財産なんだと思える。私への遠慮は少ない、遠慮すべきはエンドユーザに良くないものを提供することに対してだけだ。アイデアを検討する時も、誰の案であるかは問題にしない。本当にこれを実装して、ユーザは迷わないか、嬉しいか、どう使えるか、を話し合う。それが出来る雰囲気がこのプロジェクトにはあるように思う。未だ「こんなことできたら便利だよね」という最初にWebサイトを作っていたときに似た感覚がある。 それが「楽しい」のかもしれない。立場や上下関係に囚われず、本来の目的の(ユーザに喜んでもらう)ために本音で話せること。これがモティベーションの源泉だ。これってWebサイト作りと同じ大原則。サイトを作りながら、こんな環境というかチームが作れたところが生き残っているんじゃないだろうか。更に言えば、プロデュース業と監督業とが上手く分離して感化しあえているチームが理想的なのかもしれない。 先日Ridualをダウンロードしてくれた方のサイトにお邪魔したとき、こんな言葉に出会った。「嫌いなもの:現場をしらないくせに机上の空論となえて高い請求当たり前と思ってるコンサルタント」。二分位このページを眺めていた。こたえる。Ridualもそんな風に思われるだろうか。頭でっかちのボンボンが作ったツールに見えるだろうか。 Ridualは夏中に購入可能にしようとしている。楽しんでばかりでは済まされない。同時に秋からは某マルチメディアスクールで一回五時間セミナーが数回内定した。マニュアルも全面改訂して、新機能が分かるようなサンプルも改定中。監督が現場で汗を流している間に、私は周りを固めている。 Webサイトを作る時には、エンドユーザ主体に進めて来たつもりだ。Webサイトを作るツール作りも同じように進めてきたつもりだ。それが独りよがりか試される。時間は全然足りないけれど、最初のゴールは見えてきた。サイトのカットオーヴァーと同じだ。ワクワク、ドキドキ。 以上。/mitsui ・社内のレヴューア(実はいるんです!)からのコメント: 映画は、日本や欧州は監督のもの、米国ではプロデューサのもの。映画を芸術作品と捉えて、オリジナリティを付与した人を偉いと見るか、映画は絵画や音楽などの著作物とは異なって、どんなに頑張っても一人では出来ないので、資金や人材を調達し、方向性を与えた人が偉いと見るかの違い。

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Flash 今現在、私が担当している業務は大きく分類して二つ。RidualとFlash。Ridualから見て、Flashは三つの意味を持つ。1つは、解析対象。次にRidualが将来的に吐き出すアウトプットへの期待、そして最後が予算的な問題。 Ridualは、まだVer.1(V1)の販売にも至っていないのに、私の頭にはV5位の姿がおぼろげながらある。RidualはデータフォーマットとしてXMLを採用している。ここにFlashとの接点がある。FlashはXMLファイルを読める。Ridualでサイトの論理構造を描き、適切なXMLを生成すれば、Flashが汎用的なメニュー部分を担ってくれる、美しいインターフェースで。これがV2かV3辺りに実現したい夢。 Ridualはまだ販売していない。販売しない限り利益は出ない。ただR&D的に進めていけるほど会社は甘くない。何かしら収益性のある仕事をやるという条件でRidualプロジェクトが成立している。Flashの勉強をしながら、提案例を考え、システムインテグレータ(SIer)っぽいパフォーマンスデータを取る。同時にRidualでの解析サンプルを作成する。Flashが無視できないほど活用されているからこそ、何かと上手くかみ合った形で進んでいる、時間が足りないことを除いて。 Flashに絞ったカンファレンスが開かれて、何故かそこでお話させていただくことになった。様々な不思議な縁が重なり合い、声をかけて頂けた。なんとRidualの初期の姿を知る人までが、絡んでいる。狭い世界だとは言え、やはり不思議な気がする。 さて、そのFlashである。Ridualと離れた部分での何をやろうとしているかと言うと、Webアプリケーションのユーザインターフェース(UI)としての活用がテーマだ。アニメーションツールとしての側面は余り考えていない。純粋にWebアプリのUIに絞った活動をしている。 従来のFlashファン(最近はFlsherというそうだが)からは嫌われそうな活動である。そんなのFlashじゃないと言われる。Flashをツマラナイものに使うな、とも言われる。でも、正直言って、Flashをいわゆるデザイナに独占させるには勿体無い、エンジニアにも使わせろ、というのが出発点。 Flashとの出会いは、まだFutureWave社の製品だった頃に遡る。GIFのファイルサイズをどこまで落とせるかが、優れたWebデザイナであると言われてた時代である。あの時の衝撃は忘れない。ベクトル系のWebグラフィック。とにかく軽くて美しい。「蟹さん」マークの箱を買い、通常ソフトの箱には執着しないのだが、あの箱は暫く手元に置いておいた。 そして、段々と進化していく姿を眺めていた。生業としている業態が余りFlashを許してくれなかった。だから仕事で使う機会が殆どない期間が続く。でも、機会があればFlash関係のセミナーなどには顔を出し、余り離れないように努めた。 Webを眺めていても、いつも驚かされるのはFlashだった。カンヌかどこかで最初のWeb系の賞をとったサイトも、Flashだった。マウスに反応するUIを飽きることなく見つめていた。中村勇吾氏のサイトを知ったときも、ため息をつきながらいじっていた。そして、氏のサイトで1つの「教え」に出会った。 それはマウスを動かすことで、画面上に規則的に並べられたポイントを中心に円が拡大縮小するものだった。マウスとそのポイントとの距離に反比例して円の半径が計算される仕組みだ。マウスを近づけた点の回りが大きくなり、離れるに従って小さくされる。 当時、私の悩みは有り余る文字情報を載せるスペースがHTMLには少ないという問題だった。文字ばかりを並べても読んではもらえない。読みやすい工夫は必要だ。その必須項目にマージンとか行間とかの空白のスペースがあった。それを十分にとると、結果として一ページの画面サイズが縦長になり、下のほうのモノは読んでもらえない。袋小路状態。煽るようなコピーで次画面に誘導するようなことで急場をしのいだ記憶がある。少し後ろめたさを感じつつ。 Flashは、普段は小さくしておいて、マウスによって見たいと意思表示された領域を拡大して見せれば良いじゃないか、と教えてくれた。俯瞰(一望)性と詳細表示の両立。目から鱗だった。小さな画面が無限の広がりをもって見えた。更にノーリフレッシュサイトとマクロメディアが呼ぶ「作り」を見て、タブなどの部品を配することで、一つの画面が幾らでも増殖できることを目の当たりにする。惹き付けられた。 これで仕事がしたい、と感じた。FORMタグを駆使して作り上げた情報のやり取り画面の次の世代。ユーザが入力すべきことをアプリが拡大して促してくれる業務アプリの時代。別に人工知能が必要なわけじゃない。どのデータの次にどのデータが入力されるべきかを決めておけば良いだけである。いつも山ほどのテキストボックスを見せられて、前例を探し、セクレタリーに記述例を教えてもらう時代からの脱却。初めてそのフォームに触れる人が、迷わず入力できる世界。Flashがその道を見せてくれている。 しかも、Flash Remotingがデータ転送量を減らしてくれている。アクセス数を伸ばしたい、けれど伸びればサーバ負荷が増えてスケールアップする必要がある、そんなジレンマへの福音だ。Flash Remotingの資料には、JavaだのWebサービスなど、SIerなら放っておけないだろう、と言わんばかりの言葉が並んでいる。エンジニアへの挑戦とも感じている。 そしてもう一つの想いが膨らむ。これまで、SIerに所属する身から言えば、エンジニアとデザイナの共存協労という観点から見たならば、Webサイト構築は失敗の歴史だったと思っている。しかし時代が変わってきている。動けばよい、機能すればよいという時代が終わろうとしている。いかに気持ちよく使ってもらえるかが「機能」と見られるようになって来ている。エンジニアとデザイナが不仲で良かった時代は終わる。そんなマネージメントをしている企業自体が姿を消すからである。Flashはその引き金だ。 データベースから情報を引き出してくるノウハウ、それに価値がある時代。そのノウハウが多数のエンジニア層が故に一般化した情報になっていく。こなれた技術と呼ばれる時代。誰が作っても同じ性能が出せるようになる時代。その中で差別化していくにはどうするのか。デザインである。見た目のデザインだけではない。使い勝手の設計(デザイン)が最大の差別化のポイントになる。あそこに作らせると何か使い易いんだなぁ、そう言わせるノウハウこそが益々重要になってくる。勿論それが全てFlashの縄張りではない。適材適所。HTMLの方が適している場面もまだまだある。その切り分けも重要なノウハウだ。 XMLだ、Webサービスだ、.NETだ、とエンジニアサイドだけがWeb界を引っ張っていっている感じがする。でも、どっこいUIやユーザビリティは健在だ。かえってやるべき事が山積みだ。サーバ側しか見てこなかったSIerには、大きな波が襲ってくる。間違いなく。うかうかしていられない。…

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Flash Conference 2003 Flashに特化したカンファレンス。Flashの様々な顔を間近に見れた一日。公式発表はまだないけれど、約2000人。当初1500人目標とどこかで聞き、しかも有料で大丈夫かと心配したのは、老婆心もいいところだった。 構成は、午前中にキーノート。CEOロブ・バージェス氏、お馴染み田中CTO、そしてドコモの夏野氏。午後から3トラック(デザイン/コンテンツ、アプリケーション、デバイス)各3セッション、計9セッションが行われた。そして全セッション終了後にFlash系コンテストの受賞作品紹介。セッション会場の他に、各種スポンサーの出展ブースコーナ。 私が話したのは、アプリケーショントラックの2番目、「Flashアプリケーションの開発と機能としてのインターフェース」。Flash技術集団として有名な2ndFactoryの齋藤さんとの異色のコンビ。実は開催前には「何故、NRIなんかに?」とも言われたヒヤヒヤのセッション。 しかし、プレゼン資料と格闘している2日前の深夜に送られてきたmailには、事前登録712名とあった。プロフィール的には、ややエンジニア系(36%)がデザイン系(32%)より多い程度。経営者層も13%程いて、少しFlashに関心を持つ層が変わってきているのを予感させた。 会場ではもっとそれを実感することになる。会場は満杯。2ndFactoryの知名度が半分以上の原因だろう。しかし、スーツ姿の方も目立つ。やはり、客層が変わってきている。話し始めたときは緊張して余り会場を見れなかったけれど、少し慣れてきたときに気がついた。立ち見客の中には床に座り込む方たちがいる。 時々無理を言って参加させてもらっているアメリカのカンファレンスみたいだ。アメリカは嫌いになったけれど、あの雰囲気は今でも好きだ。それこそ老いも若きも、好きなところに座って、自由に議論する。話を聞いているだけじゃない。私の英語力では分からないところも多いけれど、髪逆立ててピアスをうじゃうじゃつけたようなデザイナが意見をいい、それに対して初老のスーツ姿が真剣に頷きながら意見する。そんな意見の応酬はすがすがしい。今回は議論こそしなかったけれど、真剣に画面を見詰めてくれる床に座り込んでる方々を見ながら、数年前のギラギラしてHTMLの技術を身に身に着けようとシャニムになっていた頃を思い出す。私自身も次のセッションは床に座りこんで聞き入った。お尻は痛くなったけど、なんだかホームポジションに感じる。 なんだか元気のなくなってきているようにさえ見えるWebの世界で、こんな熱いものって、Flashの他にあるんだろうか。いや、Webを離れても、これだけの年齢層の幅に受け入れられ、これだけの多彩な才能に注目されている技術が他にあるんだろうか。もしかしたら、ゲームやアニメーションの世界にはあるのかもしれない。でもこの程度の告知で2000人を集客できるものは少ない気がする。 当初は前半後半で分けて話すというストーリーだったけれど、一緒にやったプロジェクトもあるので、テーマ毎に交互に話そうということにした。もう少し齋藤さんに話してもらった方が、聴いている方の希望に添えたかもしれないと反省をしたのだが、2人で合意した路線は、「デザイナもエンジニアも変わろうよ」。今のままでは立ち行かないよ、というメッセージ。 デザイナには見た目のデザイン以上に操作性のデザインへ、エンジニアにはDBばかりでなく操作する人間も含めて「システム」なんだよ、と。メッセージだけじゃなく、実際に時間入力のFlashアプリを開発する上で、どんな経路を辿ったのかの例示、私の方からはエンジニアがデザイナに歩み寄るにはどんな方法があるのか等を話した。図に乗って、Macromediaさんの情報提供のあり方等にも注文をつけるような発言までした。 絶対に時間が足りないだろうと言いつつも、予備のプレゼンを用意していたのだけれど、結局それもお見せした。それでも終了は予定の2分前。何か話し忘れたことがあるかもしれない。 齋藤さんも日頃、システムインテグレータ(SIer)と仕事をする上で感じている改善点に触れ、私もSIerとしてデザインに取り組む重要性を踏まえて語った。準備段階で二人で話すとき、どこまでが世間の常識で、どの辺りから聴いてもらって喜んでもらえるのかが分からなかった。だから、Macromediaの方にも、何度も質問した、「これで面白いですか、聴く価値ありますか」。 講演後何人かの方が来てくれた。若い方が、「良くぞ言ってくれました」と感想を伝えてくれたとき、この講演の話を受けてよかったとゾクっと来た。私より年配の方が、「我々も同じ苦労をしているのです」と口にされたとき、こうした悩みと格闘しているのは自分達だけじゃないんだと励まされた。各人所属している組織の利益とか縛るものは存在するけれど、それとは違う次元での連帯感。Flashという共通基盤の上に住むものとしての連帯感。しかも、心地よい連帯感。あぁFlashに出会えて良かった。 でも講演を終えて少し考えた。私はこのプレゼンのために用意した画面は46枚。齋藤さんは8枚程(動きが付いているので枚数は数えにくい)。しかし、講演を聴いた方の脳裏に焼きついているのは、恐らく齋藤さんのあのインタラクティブな映像だろう。う~ん、デザイナってずるい。でも、それがデザインの「力」なんだと思う。エンジニアはこれを活かさないと。 尚、齋藤さんのメインメッセージは、ユーザーインターフェース(UI)の重要性。ここは、違うセッションを聞いたときにも考えさせられた。現在、Flashは単にパソコン上のブラウザの枠から飛び出そうとしている。少しだけ聴いたデバイスセッションでは、組み込みの世界でもFlash活用の道筋は出来上がりつつある。これは、その世界のUIデザイナが求められる、ということである。パソコンという世界以外の制約がある中で、UIの良さを追求していく、そんな道もFlashの先にはある。Flashの懐は深い。 色々と他の感想も書きたいけれど、私の最大の収穫の話を最後に。この1日の最大の山場は、実は最後の最後に来た。そのflaファイルには、連夜のプレゼン準備で襲ってきた睡魔も敵わなかった。一気に目が覚めた。 だらだらと続くFlash受賞作品紹介の最後に登場したのは、山本真也氏。作品は「SINPLEX SHOW」。落ちてくる水滴にカーソルを合わせることで作品の行き来ができるインターフェース。ご自分でも操作しづらそうだったが、見せてくれたのは、ブランコの周りにたむろする親子。3人の子供達がそれぞれのスタイルでブランコに乗っている。お父さんが小さな子のブランコの反動を付けてあげている。ただそれだけ。延々続く。映像は全てシルエット。白画面に黒の人影のみ。…

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人参 眼の前に何があったら、前に出る気持ちが増幅されるか。どんな人参がぶら下げられたらやる気になるか。何が自分のモティベーションを上げ下げさせるか。 先日ある話を聞きながら、色々と考えてしまった。Web界でもっと頑張ろうとする条件は何だろう。金儲けだろうか、技術的好奇心だろうか、会社や上司の指示だろうか、流行だろうか。不況の中でWeb界の相場も下がってきている。そこで生きる人達の生活は苦しくなっていると言えるだろう。バブリーな話を聞く機会は明らかに減っている。苦しい人たちに何をメッセージすれば、この状況を打破できるような活性化が望めるのだろうか。 そこでは、どれだけ儲かるかが語られた。市場規模、今後の明るい見通し、ユーザ動向。様々な右上がりの折れ線グラフをもとに、この世界に入るといい事ありますよ、と。普通では身近に感じる訳もない数字を、いわゆる紳士が延々と並べる、笑顔で。これがビッグビジネスですよと言わんばかりに。 別に法に触れるような胡散臭い話じゃない。何処から見ても立派なビジネス。ただ、その分野をどう考えるかには個人差が強く現れる分野とは言える。 その分野の好き嫌いの前に、何か引っかかるものがある。どこか昔に経験しことのある匂い。才ある者を囲い、労する者よりも、腕組して座す者が儲ける仕組み。クリエイタを持ち上げてヴィジョン(絵だけではない)を描かせて、1枚300円ねというビジネススキーム。もちろん、そんな言葉にしたら、理詰めで反論されるし、その反論に抗するだけの理論武装はできない。それでも直感がそうささやく。 でも、そもそも、「儲かります」というのが、クリエイタへのメッセージになるんだろうか。クリエイティブなアイデアを出す人も、人の子なので霞を食べて暮らしていける訳じゃない。以前書いたように、自分が豊かにならなくては他人を豊かに出来る訳などないと思っているので、豊かになるための経済的支えは必須だ。その意味で儲けは欲しい。でもそれは目的じゃない。 才能溢れる「クリエイタ」がライセンス料のことだけ考えているような「人」になっていくのを何度か見たことがある。それは「悲しい」とか「哀れ」とかではなく、なんだか「無惨」という印象を持つ。本来の翼を自らもぎ取り、それでも以前の自分であると錯覚しているような感じ。見てて辛い。 聖書にこんな言葉がある、「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた、むなしい(伝道者の書5章10節)」。有り余る富を手にしたことはないけれど、なんとなくそうなんだろうなと思える。ノルマは達成しても新しいノルマが与えられる。ノルマを達成したときの満足感は、新しいプレッシャーに変わっていく。その収益の数字を、収益を生む方法自体への愛着よりも上に置いたならば、多分何かが崩れたサイクルに陥る。数字は結果だ。それを求める方法論を考えることまでは否定しないが、数字を追い求めることだけを目的に進んではいけない気がする。なんでもアリの世界になり、満足感からも遠ざかる。 それに比べて、作品を作り上げた達成感、満足感は少し異なる。もちろん、やり残したと自覚するタスクはほぼ毎回残るだろう。満足しきることはない。でも何か違う。全力を尽くしたという想い。何ともいえないあの心地。作り上げたものから学ぶことがある。それが次回の土台に繋がっていく。次回何かもっと上手くやれそうに感じる。更なるチャレンジをしたくなる。何よりも満足感や喜びがある。特にWebの世界は独りよがりを牽制する仕組みが備わっている。他人とつながってこそ価値が出る世界だ。自分の満足感は誰か他人の喜びにどこかでつながっている。これがあるから、この創造の現場から離れられない。 クリエイタを集めたいなら、こうした人参が必要だ。更に、一時の寄せ集めでない限り、こうした条件を出し続ける必要がある。でも、Webの世界でビジネスモデルという言葉がはやりだしたときから、この辺りを考える人が減った。そして、未だに札束で頬を叩くようして、「ほれ、欲しいだろう?」という勧誘をする。その誘惑が強いことを知っているが故に反発を感じる。そうしたワンパターンの勧誘の仕方自体にも、人間をなめているようで怒りも感じる。もうやめようよ、そんな方法は。そんなやり方で才能を釣っても育てられない。 クリエイタ達を誘いたいのならば、そこがどれだけ楽しいかを示せばよい。煽る必要などない。モノ作りの楽しさを知っている人は、それに敏感だ。更に人づてに伝わる速度はWebが加速してくれている。だからどれだけ楽しいかの実現に努力すればよい。クリエイタを欲しいのは、自分達でアイデアを出せないからだ。喉から手が出るほどそうしたアイデアが欲しければ、もっと大切にすればいい。姑息な手段は不要だ、単純明快な方法が一番ストレートに届く。 煽られてその世界に参入して、実体に落胆して去った人たちは二度と来なくなる。それはサイト訪問で皆がウンザリするほど経験済みだ。張子の虎にはうんざりだ。技術にしても、市場にしても、参入したことを後悔させるような体制で、才ある人を迎えるべきではない。 参入してその魅力にとりつかれた人は離れない。そしてその対象をどんどん強くする。初期のブラウザもストリーミング技術もC++もJavaも、飯よりもそれが好きな人の姿が垣間見えた。その人たちへの信頼が、より大きなコミュニティを生んだ。信頼に足る人をどれだけ魅入らせることができ、尊重できるかがスタートポイントかもしれない。 人の働き方は変わって来ている。工場の生産ラインでさえ、一人一工程という流れ作業よりも、一人で一製品を完成させたほうが効率が良いという人たちが出てきている。その差は何か。流れ作業を遅延させる工程をどう組み合わせるかの難しさと、一人で完成させる喜びにあるように感じる。喜びのある労働では、人は工夫する。より高みを目指す。そこが機械とは異なる根本的な点なのだ。 テレビで見たその工場では、その担当者が一番働き易いようにするのはどうすれば良いかを真剣に検討していた。制服姿のおばちゃんが特製の作業ユニットに座り製品を作っていく。それを工場長とかお偉方がメモをしながら見つめている。どこにどの部品を置けば、その人が作業し易いのかを検討しているのだ。もちろん、こうした方法が万人に適応できる訳ではない。その工場でも、そうした一人完成型作業を望む者も数パーセントで、実際にそれが可能な人は更に絞り込まれる。でもその画面を見ていて思ったのは、恐らく製品を完成させるという能力において、そのおばちゃんはその工場長よりも遥かに高い能力を持っていること。そして恐らくはその工場長はそれを自覚していること。更に、その能力を更に発揮させる、発揮してもらうにはどうすれば良いかを真剣に考えていること。そしてそうした考える作業はそのおばちゃんより工場長の方が長けているだろうこと。更にそうした上手く複雑にかみ合った「才」は、その工場でしか意味がない可能性が高いことが面白い。同じ登場人物で、同じ状況でないと、試すことすら出来なかった「場」があるように思う。 そうした「場」を作り上げることを、マネージメントと呼ぶのだろう。才を集めるのも、才を育てるのも、それ次第だ。そのおばちゃんをその工場につなげているのは、金銭的条件が全てではない。自分の能力を引き出してくれる可能性にも魅力を感じているだろう。そんなのも全てひっくるめてマネージメントなのだ。 アプリケーションのユーザインターフェースは、人の心の機微まで察して作られるようになる。単純なテキスト入力ボックスが羅列されているモノをアプリとは呼ばない日が来る。マネージメントも同じだ。金だけ積んでさぁ魅力的でしょ、なんて言っていては鼻で笑われる時代が来て欲しい。あと3~5年で、クリエイタ、デザイナ、エンジニア、マネージャが混在してやる気を維持しつつ協労する時代が来ると思っている。そう出来つつある企業が生き残っていく。そうでない限り日本の産業空洞化は行き着くところまで行っているだろう。マネージメントに残されている時間は少ない。 もう一つ。求められている者達も、座して状況が改善されるのを待っていては駄目だろう。さとくあらねば。陳腐な誘惑には乗らない。見極める目も大切だ。自ら動くことも。待っていても良いマネージメントは湧いては来ない。 以上。/mitsui

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うざい Ridual開発陣の中に、「うざい」という言葉を使うメンバがいた。私は彼女のその言葉をかなり信頼していた。 うざい (主に若者語で)面倒だ。うっとうしい。「うぜえ」とも。〔「うざったい」の略からか〕 三省堂「デイリー 新語辞典」より   うざった・い (形)俗に、ごちゃごちゃしていて煩わしいさまをいう。うざっこい。 三省堂「大辞林 第二版」より 自分が気に入ったサイトやおかしいと思ったサイト、あとは開発中のRidualのインターフェース…、様々なモノを見てもらって、評してもらう。彼女が良いと思った時はそれなりに言葉が重ねられるが、駄目だと思ったモノには「うざい」と一言だけで返される。どんなにお金をかけたものであろうと、知名度があろうが、容赦ない。一刀両断。 最初にその判断に触れたとき、何故彼女がそう感じるのか、何が彼女にそう感じさせるのかを知ろうとし、言葉にしようとした。でも、直接彼女に質問しても「だって、うざいじゃないですか~」の一言で深彫りすることすら出来なかった。そのうちに、私が何かを見せる、彼女が「うざい」か「うざくない」かの2択の判断をする、私が対策や対応を考えるというワークフローが出来上がっていった。彼女に質問しても理由は分からない。でもその直感的な判断は身近の誰にもない特性だった。得難い逸材だ。 Ridualは今でこそ、ページ間のリンクやリソース関係のみを扱っているが、当初はページ内のデザインパーツにも踏み込んでいた。最近はCSSで書かれることも多くはなっているが、ページ内のレイアウトは基本的にはTableタグで書かれるのが主流だ。そのレイアウトのパターンから配置するリソース、更にはそのリンクやformタグ等、様々なHTMLの機能要素をよく使われる単位でまとめて「ユニット」に再編成して、サイト構造を記述できるようにした。 まぁそこそこの記述は可能で、それなりの形にはなったと思っていた。サイトを開発する際、ソースを見るまえに、tableがどうのような形に配置されているのか等を一目瞭然の姿にした。どんな絵が使われていようと小さなアイコンで、そこに絵があることだけを表示したので、純粋に構造だけを把握できた。更にその構造自体をコピーペーストできたので、複製ベースのサイト構成はまぁまぁ楽だったと今でも思っている。但し、これはまだDreamweaver等でもtemplate機能がまだ整備されていない時代の話。 ところが、こうのようなHTML機能をブロックのように扱うには致命的な問題があった。一つは新規に作成する場合はまだ良いが、既存のサイトをこの世界に持ち込むことの困難さ。HTMLコードをこのユニットに翻訳してやる必要があった。もう一つは、1ページを作成するのに必要なユニットの数が半端なものではなかったこと。 後者は、その「彼女」に一言で切り捨てられる。うざい。時間もコストもかけている。ない知恵絞って泣きながら実装してきたものである。数分使って、この一言。チクショウと思って聞きなおしても、「だって、うざいじゃないですか」、と理由を考えるのも”うざそう”に笑う。当時のRidualは1ページに数十のユニットが乗るようにしてサイトを作って行く。操作する人間の限界から考えると50ページが上限だったかもしれない。どのリソースがどのページにリンクしているか等、分かり易くはあったが、こんな感じでサイトは作りたくない…そんな直感がうざいと言わせた、と理解した。 悔しかったし、なんとか見返してやりたくて色々と考えた。上司からの課題といった種類のものではない。自分よりも二回り近く年下の娘の一言が相手である。真剣だった。何故こうした構造で作ろうとしているかとか山ほどの言葉を並べる自信はあった。でも、彼女が使いたいと思わなければ、多分世に出しても無理だと直感的に感じとった。彼女の「うざい」という言葉が、これからのWebサイトやWebアプリケーションの大きな評価軸になると予感した。うざいサイトは敬遠される、うざいアプリは使われず朽ちていく。 で、捨てた。ページ内に関わる「ユニット」を事実上全てボツにした。残されたのは、ページ関係を示すページ,ゾーン,Url,コメント、そしてリンク。それまで私がやってきたことは、イメージユニット,フォームユニットやレイアウトユニットと言った画面内の機能のユニット化であった。理論的に綺麗に作ったと思っていた24個のユニット。その多くがが一言で「(意味のある)無駄」になった。 決断時は脱力感があった。今までの苦労が報われない気が少しした。でも今は、英断だったんだと感じている。自分がどう考えたかに固執せず、ユーザが使いたいと思うかに焦点を移した。なんだ、Webサイトと同じじゃないか。その結果、Ridualは「解析ツール」としての力を手に入れることになる。設計図を描く段から、解析まで1つのツールで見渡せる。それこそがやりたかったことだ。そしてその後ダウンローダも実装され、今やURLを入力すれば他人のサイトがそのままコピーできて、自動でサイトマップまで作れるようになっている。Flashを含むサイトを解析して、そのサイト自身が提供するサイトマップとほぼ同じものをRidualが表示したとき、背筋にゾクっと来た。Ridualは、削ったが故に広がった。なんだか逆説的で面白い。…

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怒り 怒りは心の中で腐敗する。確か落合恵子氏がどこかで言っていた言葉だ。最近それを時々感じる。何かに怒りを感じ、それを心の中に貯めておくと、徐々に不機嫌である時間が長くなる。怒りを貯めながら、不平を言葉にすると、口から出た言葉が更に怒りを増殖させる。 クライアントのサイトを作るとき、余り仲間内で不平大会を開かないようにしていた。言い出したらキリがないし、自分で止められなくなると分かっていたから。どんなサイト開発も、実際のところ技術的な問題やアイデアの問題で壁にあたるよりもクライアントや上司を含めた開発メンバとの問題の方が大きかった気がする。いわゆる衝突状態や振り回される状態に陥る。 今までで一番衝突したのは、元COBOLエンジニアとがっぷり組んでサイト開発をした時だった。今から8年ほど前の話である。COBOLに限らずメインフレーム系の人たちは、開発の段取りがきっちりしている。Web界の人たちから見たら、ガチガチに見えるほどだ。でもそれは、そうしないと品質を保障できないから、そのような仕組みになっている。 元COBOLの彼には初めてのWebサイト開発。そんな彼にとって、Webのチャランポランさは許しがたいものに見えたに違いない。アイデアが出た途端にコードを書いて公開する。ミスが見つかったらすぐさまコード修正して公開する。DB定義も必要が出るたびにフィールド追加が次々と発生した。仕様書は事実上存在しない。たまりかねた彼は、公開一ヶ月前にコードフリーズしろと言い出した。リリース1ヶ月前からHTMLも含めて全てのソースコードの変更をするな、テストをしろ、と。COBOLの世界では当たり前の常識的なワークフローである。しかし、サイト開発は数ヶ月でリリースまで持っていく。ひどいのは工期が一ヶ月あるかないかだ。 まさに顔を合わせる度に言い合った。それが延々続く。結構まいってくる。でも負けずに話した。何故変更が必要か、どうしたいのか。彼の話も聞いた。何をリスキーだと感じているのか。何をすれば納得してくれるのか。上司が心配する程の間柄だった。でも全て表で言い合ったことが良かったと思っている。彼のいないところで、彼の悪口は極力言わないようにした。まぁ意図的にそうしたというより、クタクタで文句を言っている体力もなかったし、無茶なスケジュールだったので時間もなかった。で、そのプロジェクトは成功に終わる。クライアントには他社にない機能を提供できたし、そこのコアユーザにいかにも受けそうな機能だった。我々はチャレンジすることで体力も自信もつけた。 その後私はその会社を去り、彼も数年後に自分の会社を興すためにそこを去った。でもその数年後、彼からmailが届く。久々に会ってみると、一緒に組まないかと誘われた。結果的にその話には乗らなかったけれど、彼との衝突を色々と思い出してなんだかおかしかった。しかも彼が興した会社はUNIX系Webの分野に特化していた。分からないものである。 あの時飲み屋等でウサを晴らしていたならば、こんな関係にはならなかった気がする。そう言えば、お互いそのプロジェクトの間一度も呑みには行かなかったけれど、打ち上げの時には隣に座って祝杯を上げた。優等生的な言い方だけれど、私は彼から沢山学んだし、彼も私から多くを学んだと思う。今後一緒に仕事をするような機会があれば、またあんな衝突をするだろうけれど、多分もっと上手くやれるような気がする。 私の知っている同業者の中では、クライアントに振り回され続け、常に不平をブツブツ言う癖がついている人たちがいる。かく言う私も独り言ならかなり言っている。でも複数人で意気投合した文句言い合い合戦は避けている。こちらが文句を言っている間、多分先方も腹を煮えくり立たせている事が多いはずだ。お互いに「なんて馬鹿なんだ」となじり合っていて作られたサイトで、ユーザが気持ちよく歩きまわれる訳はない。 一人でブツブツと文句を言っていると、結構そういう自分が馬鹿馬鹿しくなってきて早めに醒める。何で先方がそんな反応をするのかを考えられるようになる。そんな時、カーッと熱くなっていたのが、昔桃井かおり嬢がCMで言ったように、「世のなか馬鹿が多くて….」と気だるそうに言えるようになる。余談だが、このCMは凄く好きだったんだけれど、「馬鹿」という言葉が引っかかって、台詞が差し替えられたと記憶している。たしか「おりこうさん」になった。断然「馬鹿」の方があっている。もう一度みたいCMだ。でも何のCMか憶えていない。 怒りを燃え立たせる方に力を入れないこと。これは短工期プロジェクトの必須条件かもしれない。坊主にくけりゃ袈裟まで、となりかねない。余計な誤解や判断が混じっていく。ただでも分かり合えないのに、わざわざ壁を増やすことはない。 でもそうすると、何でも事なかれ主義で衝突しない関係を奨められる。でもそんな中から本当の関係は生れない。お互い言いたいことを我慢するのは体に毒だ。今まで何件か間接的に支援したプロジェクトがある。こういう仕事が一番辛い。クライアントに直接もの言うことも許されず、間に立つ人たちの労苦を感じ取りつつ、言うべきことを言わなければならない。本質以外のところでひどく疲れた。 クライアントにしても、何も発注先に威張ることが目的ではないはずだ。発注先からのアイデアに従うことは負けることではない。そもそも陰口が多いプロジェクトは、どっちが勝った負けたというニュアンスがついている。誰もがある程度は楽しく仕事をする方法はあるはずだ。それはどちらがどちらを従わせるかではない。良い関係作りは良い衝突を繰り返すしかないように思う。 では、腐敗したモノを処理するにはどうすれば良いのだろう。先日面白い体験をした。飛行機で移動中、始終泣き続ける子と嬉しそうに大声で笑う子に出会った。同じ便ではない。どちらの場合もクタクタで私は寝たかった。どちらもそれを邪魔してくれた。でも前者に比べ、後者は後味が悪くなかった。楽しんでいる人を見ることは、悪いことじゃない。特に子供の無邪気な笑い声だったことも幸いしたと思う。金持ち父さんの嫌味な笑い声だとどうなるか分からない。睡眠を邪魔された後に心に残るものを考えながら、楽しむこと喜ぶことの大切さを考えた。 仕事で怒りが溜まるならば、仕事で楽しむことをすればいい。そんな理想主義の言葉が浮かんだ。でもハズレじゃない。出来ないことではない。そうやって考えることが、これからを考えていくことになるんじゃないだろうか。 以上。/mitsui ps. 7/18 発売の WebDesigning…

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